日本サメ漁業の歴史と伝統
7. サメ延縄漁業の衰退過程
西日本の沖合・遠洋サメ延縄漁業が衰えたとはいえ、昭和18年当時、まだ20-30隻が朝鮮近海から東シナ海へ出漁していたという(33)。こうした漁船の経営が当時成り立ち得たのは、第二次世界大戦の前後のサメの皮や同肝油需要が増大したためである。サメ皮についてみれば、昭和十四年八月以降、日本軍が軍靴材料にサメ皮を必要とし、サメ皮の生産を奨励し、これの流通を軍の統制とした。
室戸では、現在尼崎公設市場内で鮮魚商を営む久保正喜氏の父が、当時サメ加工業者であったが、室戸のサメ水揚だけでは、サメ皮の需要に追いつけず、遠く下関や島根県五十猛にこれを求め、仕入れたサメをヒレはフカヒレに加工し、皮は塩蔵し二〇枚重ねに梱包して統制会社に出荷していたという。この頃、サメ皮の価格がいくらであったか不明だが、昭和17年にはサメ皮の統制会社は19社を数え、うち最大は共立水産工業株式会社で、資本金600万円、他は150-500万円のところが多く(33)、これからみてサメ皮の収益が少額であったとは思われない。
また、サメの肝油需要については、そのほとんどが栄養剤としてのそれで、一部深海ザメの肝油が戦闘機等の潤滑油として求められていた。
特に敗戦後食料事情が極端に悪化したのが昭和25年頃で、島根県五十猛ではサメ肝油の原油が1キロ当り20-25円、三重県大王崎で同35セント(126円、ウバザメ肝油)であった。沖縄県糸満でサメを漁獲し肝油を精製している玉城盛幸氏によれば、600キロのサメの肝臓から一斗缶で10本位(約180リットル)採油できるというから、サメ肝油の収益も少なくなかったはずである。ちなみに、これらサメの原油は、昭和30年頃まで日本ビタミンやリケン化学などが買い上げ、国内外に栄養剤(サメ肝油)として売っていたという(尼崎市、久保正喜氏談)。
また、潤滑油としての深海ザメ肝油は、陸軍と海軍の要請により静岡県焼津市在住の匂坂寅雄氏が開発製造し、匂坂氏の元で深海ザメ漁を営む者は兵役免除されたという。宮崎県美々津・都農など通称とおり浜のサメ延縄漁民もやはり兵役が免除されていた。匂坂氏によると、戦時下潤滑油は輸入できず、武器に不可欠の潤滑油生産は軍の大きな課題のひとつであった。とくに、B29と闘う零戦闘機やシベリア戦線の戦車に、耐寒潤滑油を必要としたが、マイナス30度からプラス30度まで粘性のあまり変化しない油は、主として深海ザメなどのサメ肝臓から採取されるスクワレンからしか造れなかったという。後世スクワレンを原料とするスクワランは、NASAの宇宙ロケットに耐寒潤滑油として採用されたほどである。
では、戦時下のフカヒレ輸出状況はどうであったのか。
昭和12年、日本軍の中国侵略が開始されてよりフカヒレ輸出は禁止され16年に南京政府樹立の一年間だけ再開されたが、18年まで止められていた。18年、政府は中国輸出品集配の全国統制を敷き計画的輸出を行ったというが(34)、その経緯も輸出量も不明である。青森県八戸市鮫町では昭和18年からフカヒレ加工をはじめ、神戸、横浜に送っていたが、それが輸出されていたかどうかはわからない。ともかく昭和12年から5年間のフカヒレ禁輸が、サメ延縄漁業におよぼした影響は計り知れない。
さらに、日本海から朝鮮近海・東シナ海では、敗戦直後日本政府の海上封鎖、昭和20年9月には進駐軍がマッカ-サ-ラインによって海上封鎖。27年4月マッカ-サ-ライン撤廃と前後して同年1月韓国の李承晩が李ラインを設置し鮮海封鎖する。こうして沖合サメ延縄漁業に限らず、鮮海・東シナ海出漁の漁業は戦後壊滅的打撃をうけた。「明治に入り玉江・越が浜はそれぞれ釜山・木浦を基地に延縄漁業を操業した。このような経験に富む両浦は李ライン撤廃後と同時に出漁したが掌捕されるにおよび漁場の変更を余儀なくされた(34)」という。魚価低廉なサメを対象とした沖合延縄漁業は、より遠洋へ漁場を求めるより、島根県五十猛のサメ延縄漁民のように自村沿岸に逆戻りするか、他漁種へ転向する以外に活路はなかったであろう。こうして江戸時代後期以降、対馬海峡・朝鮮近海・東シナ海を舞台に活躍した西日本の沖合サメ延縄漁業は消えていった。
一方、北日本の沖合サメ延縄漁業は、昭和30年頃までは盛況をきわめる。しかし、その後これに従事する船は減り、気仙沼を除き、多くの地方で消滅していった。
四国室戸のマグロ延縄漁船は、戦前マグロ漁が終わる7月頃から、ネズミザメ(通称モウカ)漁に三陸・道東海域に出漁し、当初漁獲物は持ち帰ったが、戦後青森・気仙沼などに水揚し、また昭和30年頃からこれらの船が何百隻も焼津・東京・銚子に移り気仙沼を基地にモウカ漁に出漁したという。しかし、こうした船も漸次消滅していった。気仙沼でも、沖合サメ延縄漁業として営む船はいまではほとんどなくなり、またマグロ延縄漁の「裏作」として季節的にモウカ漁に従事する船はまだしも近年まで十数隻あったが、こうしたモウカ漁の姿もみられなくなりつつある。青森県鮫町では「モウカ組合」と地元で呼ばれる鰹鮪組合があり、その名に往事のモウカ漁がしのばれるのみとなってしまった。
こうして北日本のサメ延縄も昭和30年を境に衰退していったが、その経緯はよくわからない。ただし、サメ延縄漁業衰退の要因ははっきりしている。
第1に、サメの魚価は戦後あまり上昇せず、逆に漁船燃料や餌の魚やイカなどが高騰し、収支が合わなくなった。
第2に、戦時下のサメ皮需要がほとんどなくなった。昭和40年代に入り合成レザーが開発され、普及したためである。今では一部愛好家のために、シャーグリーンとよばれるちりめん状のサメ皮が高価に売られているのみである。
第3に、大戦前後のサメ肝油需要がほとんどなくなった。昭和25年頃アメリカより合成ビタミンA剤が輸入されはじめ、国内製薬会社も国産企業化に着手。
昭和30年以降これが急速に普及し、漸次サメ肝油需要はなくなった。近年、精密機械などに潤滑油として、また自然食ブ-ムに呼応して、スクワレン含有の深海ザメ肝油が栄養剤として高価に売買されるのみとなった。
第4に、フカヒレは終戦後しばらく需要増大し活況を呈した。青森県八戸では、昭和18年から25年がフカヒレ輸出のピ-クで、鮫町魚市場に日に1000から2000尾のモウカ水揚があったといい、盛時3社のフカヒレ加工業者があったが、その内の1社、月館吉五郎商店では、出荷時(年に1,2回)貨車で3両約40トンものフカヒレを横浜・神戸に出荷していたという。ところが、フカヒレ消費国中国で昭和40年頃から文化大革命の波が全土に拡がり、ブルジョアジー粉砕・社会主義国家樹立にともない、フカヒレ消費が激減した。香港ではフカヒレ在庫がだぶつきはじめ、このころから日本へ逆輸出しはじめる。時あたかも日本は高度経済成長期。日本では食糧事情が改善されるにつれ高級品嗜好、俗にいうグルメブーム到来で、フカヒレスープをはじめフカヒレ需要が増大、とくに田中角栄訪中時の宴席メニューにフカヒレが出たことが新聞に報じられて一時爆発的に国内需要がのびた。とはいえ、日本の国内需要はかつての中国向け輸出量には及ばない。こうした需要に対するヒレ亭給は、大部分が、沖合・遠洋マグロ延縄船が副次生産物として船上乾燥させたフカヒレ(船ビレ)や近年冷凍して持ち帰ってきた生ビレでまかなわれている。マグロ延縄船では、乗組員が混獲したサメをヒレだけ切りとり、胴体は海に棄て、船上でこれをつるして乾燥させる。従来こうしてつくられたフカヒレの収益は、乗組員のとり分とする慣行があったからで、マグロ延縄漁の遠洋出漁伸長に伴って、フカヒレないし生ビレ水揚が増大してきた。
谷内透氏の分析によると、「昭和五十六年ではマグロ延縄によるマグロ・カジキ類の漁獲量はおよそ二八万トンであるから、その三〇%、およそ八万四千トンのサメが漁獲されたことになる。(中略)統計上ではマグロ延縄全体で二万四千トン余り(中略)のサメが漁獲されたにすぎない」ということで、約六万トンのサメはヒレだけとって海上投棄されていることになる(36)。その混獲されたであろう八万四千トンのサメのヒレをフカヒレ乾燥させたとして2,268トンのフカヒレができる。もちろんこの数字はあてにならないし、またすべて日本で水揚しているわけでもないが、おそらくこの年の日本のフカヒレ輸出量よりはるかに多いだろうと推測させる。ともかく、フカヒレ原料のサメのヒレは、ほとんどマグロ延縄船によってまかなわれるようになった。そして、船ビレは陸上で乾燥させたフカヒレに比べ質は落ちるが価格は安い。
第5に、サメ肉およびサメ干肉利用が激減した。戦後の食料難時代にサメ肉・サメ干肉は農山村で多く消費されたが、昭和30年代後半から40年代にかけ、コールドチェーンが発達し、これらの地方でも鮮魚が出回りはじめると、サメ肉・干肉を嗜好する特定地域をのぞき、これの消費はほとんどなくなった。三次などサメの肉がハレに欠かせないといった地域でも、世代交替が進行し、高齢者のみの需要となりサメ肉消費が激減している。また本稿で触れなかったが、サメ肉は周知のとおり、スリ身にして練製品に利用されてきたが、昭和40年代に入って、スケソウダラのスリ身がこれにかわった。サメ肉は、練製品として「足」(粘着力)が強いことから、これを利用したが、「足」の弱いスケソウスリ身に「デンプン」を加えたり、凝固剤をまぜることでその欠点を補える。
価格では昭和56年、「つぶしもの」(練製品材料)のサメが1キロ当り30-50円なのに対しスケソウすり身は20-25円であった。こうしたことから練製品材料としてのサメ肉需要も激減した。サメ肉が「つぶしもの」としてよろこばれたのは、昭和25年から約10年間、魚肉ソ-セ-ジの原料としてであった。
以上のように昭和30年-40年代にかけて、サメ需要全体が激減・消滅し、魚価低迷から、サメ延縄漁業の経営が困難となり、三陸などのサメ浮延縄漁業もほとんど姿を消していったのである。
8. サメ漁業の伝統文化
ところが宮城県気仙沼漁港は、全国のサメ水揚が減少するなかで集中的にサメを水揚している。昭和38年全国のネズミザメ水揚の約60パ-セントにあたる約3,000トン、ヨシキリザメが42%で、約9,000トン、サメ類全体では、全国の約21パ-セントの13,000トンだったが、同50年には26パ-セントにのび約15,000千トンの水揚があった。最近は全国の半数近くが気仙沼で水揚され、平成3年には、12,000トンであり、同年気仙沼のマグロ類の水揚量とほぼ肩ならべる数量である。
これらはすべてマグロ延縄船による水揚である。ただし同年サメ延縄を営む漁船(今では一、二隻しかない)や、一年の内三、四ケ月だけマグロ漁の漁閉期にモウカをとる延縄漁船も統計上は沖合マグロ延縄漁船に包括されており、この分のサメ水揚もわずかだが含まれる。
高く見積もっても魚価がマグロ類の三~四分の一であるサメで、マグロ類漁獲に匹敵する水揚金額をあげるには、総量でマグロ類の3,4倍以上の水揚をしなくてはならないが、その船上労働負担はしかし3,4倍ではきかない。航海数も増え休漁日は減少する。
また、マグロ類とちがってサメの捕獲は当然危険性も大きい。サメに噛まれる危険性以外に、船上にあげたサメの尾鰭に打たれて骨折することもある。ときに三メ-トル余りのサメが二、三尾、尾をはげしく振りながら、船のロ-リングにつられ甲板上をすべりまわっていることすらある。こうした危険性も加えると、サメを専門にとり採算べ-スにのせる苦労や労働負担は単純に計算できる性質のものではなく、こうしたことからサメ延縄漁が漁民に敬遠され、着業数減少に拍車をかけた側面を見逃してはならない。
ところで、水揚されたサメは、気仙沼の市場で、ヒレはフカヒレ業者が切り取り、持ち帰ってフカヒレに加工し、ヨシキリザメの胴体(肉)は、用途により主に練製品会社が引きとり、ハンペン原料や魚肉ソーセージの原料にする。ことにハンペンはヨシキリザメの肉が最も良い。モウカは、サメ肉冷凍加工業者が、ドレスと呼ぶ頭、ヒレをとった丸ままか三枚におろし皮をひいたフィーレにして出荷する。出荷先は、東京築地の中央卸売市場などで、そこから関東山間地の甲府や山梨などに送られる。以前は、サメ肉を特に好む青森・山形・福島・群馬などの特定地域に出荷していた。最近はわからないが近年まで、イタリア輸出もしており、イタリアではステ-キで食べられる。これらの特定地域では、後述の広島県三次などと同じで、これを刺身で食べ、とくに祭礼事に欠かせないという。
西日本でみると、島根県大田市五十猛大浦の漁民は戦前までサメ延縄漁で朝鮮海から東シナ海へ出漁していたが、その後地先のすぐ前の海で、昭和30年頃まで村全員がサメ延縄に従事していた。またこのころまでアブラツノザメの来遊があり、これも小型サメ底延縄でとっていた(なお、このサメはその後ほとんど絶滅した)。
ここに水揚されたサメは、昭和30年代まで、室戸の「ワニ買い」と称するサメ加工業者が買いに来ていたといい、ワニ買いは皮を目的に、ドタブカを多く買っていったらしい。また大浦では海塚義明氏が海産物商を営み、昭和40年頃まで、サメをまるごと求め、ヒレ・肉・皮・頭・骨にわけ、各々加工し販売していた。アブラツノザメの水揚のあった昭和30年頃までは、このサメの肝臓から油を精製し、サメ肝油(栄養剤)原料として出荷する以外に、灯油や稲の害虫駆除剤として地元に売っていた。
皮は、さきの「ワニ買い」に売り、水産皮革とし、肉は、今では生鮮物として三次に運ぶが、海塚氏の父の代まで、干ワニと称し、伊勢の「タレ」や高知の「テツボシ」同様、板状の塩干物に加工し一昼夜荷車をひいて三次へ売りに行っていたとのこと。今では車につんで三次の三次水産に卸している。三次では、以前は山陰のワニだけだったが今は西日本各地から集まってきており、鮮度がよいことから五十猛のワニが一番高値がつく。なかでもシュモクザメが一番で、ついでネズミザメやアオザメ、さらにヒラガシラ、メジロザメなどである。ちなみに五十猛では昭和55年の時点で、1年の内2,3ケ月サメ延縄を営む船は四隻、漁獲金額では五十猛漁協全体の0,4%にすぎず、現在ではその船も吉岡新一氏の一隻だけになった。
一方、三次水産で話を聞くと、山間地の三次に、鮮魚が入るようになったのは昭和41、2年のころで、それ以前は生鮮ものはワニだけであった。そのワニも、さらに昔は、干ワニという塩干物として入ってきていたという。
昭和五十五年現在、サメ類は、九州(長崎、日南、油津、串木野)・四国(土佐清水)・和歌山(勝浦)・山陰(米子・五十猛)から集荷し、その量は年間1,200トン、取扱額で3,500万円で、同社取扱総額の一割以下しかない。以前は、もっと多かったが、近年三次や高田郡・比婆郡・双三郡・庄原市など、出荷先でも若い人はワニを食べなくなったという。これらの地方では、9月24日から11月23日の秋祭りと正月にワニは欠かせず、刺身で食べるが、昔は干ワニ(サメ干肉)であった。
このように三次をはじめ青森・山形・群馬・山梨などの山間地の一部で、サメ肉に対する特別な嗜好性がみられるが、気仙沼や五十猛など大きなサメを水揚する産地では大型サメの肉を食べる習慣がない。しかし、例えば気仙沼ではモウカのホシコといって心臓を刺身にして酢みそで食べ、五十猛では、サメの腸を開き洗浄して細かく切って氷水につけ、酢みそで食べる。私は長年サメ漁業とサメおよびフカヒレ流通を調査研究し、サメ漁とサメ肉を食べる習慣の不思議な現象に悩み、サメに関する伝承にヒントを求め結局サメ崇拝にともなうサメ肉食禁忌の風習へたどりついた。それを拙稿「伝承からみた日本のサメ崇拝」にまとめたが、その中で、サメ漁とサメ肉食習慣の奇妙な関係が、日本だけでなく、ポリネシアのマライタ島ラウ族やフィリピン・パラワン島などにも共通してみられることを述べた。
しかし、オセアニアではサメ漁とサメ崇拝との関係でサメ肉食禁忌がみられるが、日本では、潜水漁とサメ崇拝の関係からサメ肉食禁忌がみられる。そこで、オセアニアと日本のサメ崇拝や伝承を関連づけるには、日本でサメ漁と潜水漁が結びつかないといけない。そこで、本稿でサメ漁業の歴史をたどり、先史時代から古代にかけて、北九州宗像周辺と五島・対馬でサメ漁を営んでいた可能性を見、そこに活躍していた漁撈民白水郎ないし宗像海人に注目した。
そこで潜水漁を得意とするこの古代海人が、潜水漁のかたわらサメ漁を営んでいたのではないかと推察されたのである。そこで大昔彼らが、サメ漁を営み、漁獲物の内臓を自ら消費し、肉を交易品として近郊の農山村に運び、そこで農作物や獣肉、さらにサメ釣用の結合釣針の材料である獣の骨や牙歯と交換していたのではないかと考えてみよう。おそらく彼らは、日本に渡来する前からそうしてきたのであろう。彼らの郷里がどこかわからないが、そこを発った彼らの仲間の別グル-プがオセアニアからインド洋に分散していった。とすると、オセアニアと日本にサメ漁とサメの流通(交易)に関する共通現象からみられること、また、サメ崇拝の文化やその口伝がオセアニアなどと日本に共通項が多いのもうなずける。さらにオセアニア独特の「サメわな漁」の日本での分布、サメ釣用の西北九州型結合釣針とハワイのシャ-クフックの類似性なども説明がつく。
一方、日本での潜水漁とサメ漁の関係についてみれば、もともと宗像海人と呼ばれた漁撈民が潜水漁のかたわらサメが自分達の浜の近くに来遊してきたときこれを捕っていたが、古代の御贄亭給のための海人部制の設定や中世の水軍の編成、さらに近世以降の俵物輸出など時々の政事との関係で、同じ漁撈民集団にサメ漁と潜水漁の専門分化がおこってきた。そのため、近世にサメ漁とゆかりの深いところが海女の分布地とかさなる。中世はともかく、古代の御贄の干飽は、言うまでもなく海士.海女がこれをとっていたが、同時に佐波(サメ)も干肉して神儀用に貢献していた。近世の俵物はサメ漁の産物のフカヒレと潜水漁の産物の干飽・海参(干しナマコ)であり、やはり彼らが亭給していた。それは鮫皮を刃の柄や鞘にまく風習が古代日本と中国にみられることからも、中国江南あたりと日本が環東シナ海漁撈文化圏を基盤とした共通の食文化があったことと無関係ではなさそうである。また、サメ肉の食習慣に関連して、サメ干肉についてみると、サメ干肉はもともと漁民と近郊農山村の住民との交易品であった。
マライタ島ラウ族が、サメを信仰し自らはこれを食べないのに、サメを捕りマライタの農民との交易に使っていたこと、またこのラウ族のこうした習慣と日本の沖家室島の漁民のそれがよく似ていることを前稿で紹介したが、伊勢志摩の磯部の漁民も大きなサメを「イソベサマ」と敬い、サメ肉を食べなかった。
現に今も食べることはないが、これを捕獲しその肉を干肉にして、内陸部の伊勢地方で交易に利用してきた。その関係で、伊勢地方にはサメ食嗜好文化があり、このサメ干肉を古来「タレ」と呼び珍重してきた。伊勢神宮などで祭礼の神饌にサメ干肉を使ってきたのは、こうした古代のサメ嗜好文化を伝えるものである。
以上のように考えてゆくと、サメに関する様々な伝承・習慣やサメと漁業との関係、サメの消費形態が脈絡をもってくるだろう。
こうして、日本の伝統的専業漁撈民である宗像海人やイソベ海人と呼ばれてきた人々は、縄文時代後・晩期より今日に至るまで、サメを畏れ、一方でこれを幸として頂きつつ共存共栄してきたのである。
ところで、平成三年の瀬戸内海サメ騒動は何だったのだろうか。潜水夫の一人がサメに襲われ命を落とした。こうした事故でよくみられるように、身内や仲間がサメに復讐しようとして始まった事件だが、このサメ被害を「ジョーズ」にからめて一記者が報じたことで、パニックがおきた。
連日テレビで、ブイをいくつも積んだ五トン余りの船が船団を組み出漁していく映像が流れた。あの装備ではたして1-1,5トンもある最も凶暴なホオジロザメが釣針にかかったらどうやって捕りこむか殺すかするのだろうと思いつつ、サメとのつきあい方を忘れた漁民とヒステリックな昨今の日本人を象徴的な姿でみせつけられる気がした。マスコミに踊らされたのか、マスコミを踊らせたのか、マスコミという巨大で凶暴な「ジョーズ」が人を喰った話で、いそぎサメ除けネットなるものをつくった製網会社が漁夫の利を得た一幕だった。
風土記の世田姫伝承は、サメを捕ろうとすれば逆にその人がサメに殺されることを伝えていると前稿で私は論考した。その意味で、このサメ捕物で第二・第三の犠牲者がでなかったのがせめてもの救いであろう。
ここに私は、サメに襲われ命を失くされた潜水士・原田一太氏に哀悼の意を表し、黙祷を捧げる。
〔註〕
(1)『縄文時代の漁業 』渡辺誠 1973 雄山閣
(2)『釣針』 直良信夫 1976 法政大学出版局
(3)「九州および南島出土の鮫歯製垂飾について」、『日本民族文化とその周辺考古篇』
国分直一博士古希記念論集編纂委員会編 三島格 1980 新日本教育図書
(4)Arts and crafts of Hawaii VolⅦ Fishing Te Rangi Hiroa ,1964 ,Bishop Museum
Press ,Hawaii
(5)『装身具と骨格性漁具の知識』江坂輝彌・渡辺 誠 1988 東京出版
(6)『鮫』 矢野憲一 1977 法政大学出版局
(7)『風土記』 日本古典文学大系2 秋本吉郎校注 1958 岩波書店
(8)『古代社会の浦島伝説下』 水野祐 1975 雄山閣
(9)「白水郎考」『日本民族と南方文化』 藪田嘉一郎 1968 平凡社
(10)「『倭の水人』とそのル-ツ」『古代海人の謎』 田村圓澄・荒木博文編 永留久恵 1991 海鳥社
(11)『延喜式』 928 『古事類苑動物部』
(12)『和名類聚抄』源訓 936 『古事類苑動物部』
(13)『倭訓栞』】772 『古事類苑動物部』
(14)『日本漁業経済史中巻二』 羽原又吉 1954 岩波書店
(15)『天草灘ふか狩』 1972 熊本県苓北町
(16)『明治前日本漁業技術史』 日本学士院日本科学史刊行会編 1982 臨川書店
(17)『日本漁業史』 山口和雄 1957 東京大学出版
(18)(14)の中の『熊本県漁業誌』の抜粋より
(19)『日本漁業経済史下巻』 羽原又吉 1955 岩波書店
(20)『日本漁業経済史上巻』 羽原又吉 1952 同右
(21)「旧藩時代の漁業制度調査資料」『水産調査資料第四輯豊浦水産史料第二編』 1935 農林省水産局
(22)『日本水産捕採誌』 農商務省 1912
(23)『海の民』宮本常一】 975 未来社
(24)『水産改良説』 河原田盛美 一八八九 『日本科学史大系第22 巻農学(1)』 日本科学史学会 1967 第一法規出版に所収、なお「天保十年(1839)、『甲板を張りたる……』と文中にあるが、天保十年の年号は『日本漁業史』を参考にした。
(25)『人物・近世産業文化史』 田村栄太郎 1984 雄山閣
(26)「沖合サメ延縄漁業を中心としたサメ漁業の歴史と現状」『板鯉類研究連絡会報第17号』 樽本龍三郎 1984
(27)「天草漁民聞書」 久場五九郎 一九七五。『近代民衆の記録7 漁民』 岡本達明編 1978 新人物往来社に所収
(28) (24)に仲家太郎吉の文書所収
(29)『唐桑町史』 唐桑町史編纂会 1968 唐桑町役場
(30)『明治漁業開拓史』 二野瓶徳夫 1981 平凡社
(31)『朝鮮水産開発史』 吉田敬一 1954 朝水会
(32)「近代的漁業技術の模索」『日本科学技術史大系第22 巻農学(1)』 二野瓶徳夫 1967 第一法規出版
(33)『水産皮革』 神山俊 1943 水産経済研究所
(34)『沿岸漁場の地理学的研究』 新宅勇 地人書房
(35) 〝Shark Utilizaction and Marketing FAO 1978" Rudolf Kreuzer. Ranshid Ahmed' 宮崎一老・海洋水産資源センタ-訳
(36)『資源生物としてのサメ・エイ類』 谷内透・須山三千三編 1984 恒星社厚生閣
- 2022.11.21 「さめディア」に掲載*
- 2011.08.15 Word版として改訂
- 2011.07.27 ブログ「魚の絵とイラスト」に転載
- 1995.3.1「フォークロア 1994 No.7」に連載
* 今回「さめディア」に掲載するにあたり、故樽本龍三郎先生の奥様をはじめ、たくさんの方にご協力いただきました。ここに感謝の意を表します。
関連記事
関連マップ
お願い
誤字・脱字や誤った情報、著作権・肖像権を侵害するものなどを見つけましたら、お手数ですがお問い合わせよりご連絡ください。