論文 2022/04/30   2022/12/29    田向 常城

サメと働く現場より

青森サメ食文化の変遷と現在・田向商店の展望と挑戦

(有)田向商店  田向 常城

1. 田向商店とサメとの関わり

1-1. 肝油需要

田向商店の海産物問屋としての創業は昭和4年(1929年)です。養蚕事業に就いていた曽祖父が晩年、縁あって青森市の海産問屋「松尾商店」に再就職し、魚の売り買いを学び独立しました。何年もたたぬうちに祖父に代を譲りました。仕事の内容は、近海物の売買と北海道で漁獲される海産物の廻船業です。当時はまだサメをそれほど多く扱ってはいなかったようです。数ある魚の中の一つという位置づけでありました。
サメと深くかかわり始めたのは第二次世界大戦が終わった後からです。当時は、米国における天然ビタミンAの需要が高く、ビタミンAを多く含有する魚の「肝油」が高い値段で取引されておりました。当時、アブラツノザメの肝油にはビタミンAが多く含有されているとされており(含有率の高さから言えばイコクエイラクブカのほうが多いのですが、それだけでは足りなかったので、似ているアブラツノザメにシフトしたのかもしれません)、もともと青森では食用に利用されていたこともあって産業的利用は一気に高まりました。父健二の記憶によれば、粗肝油の価格はドラム缶1本(180kg)当り10,000~30,000円(55~165円/kg)で、その価格はビタミンA含有量によって変動したとのことでした。なお、当時の原料価格(魚体の価格)は5~10円/kgであったと父は記憶しています。当時の物価を現在の20分の1と考えると、粗肝油は1,100~3,300円/kg、原料価格は100~200円/kgとなり、原料価格に関しては現在と同価格かそれよりも高かったこととなります。

樽本龍三郎先生の「日本サメ漁業の歴史と伝統」によると、敗戦に伴い食料事情が極端に悪化した昭和25年頃のサメ肝油が、島根県大田市五十猛(いそたけ)では20~25円/kg、三重県大王崎では126円/kg(ウバザメ肝油)であったとのことなので、弊社の粗肝油は結構よい値段であったことがうかがえます。
米国のビタミンA需要によって、日本では魚油や肝油からビタミンAを生成して輸出する会社がたくさん現れました。現在、「ふえるわかめ」「ノンオイルドレッシングシリーズ」「無添加だしの素」「各種レトルト食品」で有名な理研ビタミン株式会社もその一つです。当時は、「理研ビタミン油株式会社」と社名に「油」の字が付いており、魚油からビタミンAを抽出する仕事がメインだったことに起因するようです。理研ビタミン油さんは、戦前の理化学研究所が所有していた分子蒸留技術を民間利用する目的で戦後設立されました。この分子蒸留技術を用いて粗肝油からビタミンAを分離させたのです。ビタミンA需要が高まると、原材料の確保が必要となります。経費削減のために精製会社は、より原材料水揚げ地に近いところに拠点を作るようになりました。弊社は、祖父の時代に理研ビタミン油さんの青森工場として、アブラツノザメの肝臓から粗肝油を製造する仕事を請け負いました。アブラツノザメの肝臓にはビタミンAが多く含まれますが、どのような肝臓でもよいというわけではなく、「クロカン(黒肝)」と呼ばれる小さく硬い濃灰色の肝臓に最も多く含まれているとされていました。「クロカン」は高齢の雌の肝臓で、高価格で取引され、これを数個売ると当時のキャバレーを3件ハシゴできたといわれています(30年前の従業員の話)。通常、アブラツノザメの雌の肝臓歩留まりは全体の18~20%となりますが、「クロカン」の歩留まりは10%以下であり、その分ビタミンAの含有量が多かったと考えています。アブラツノザメは非常に長寿なサメで、80年以上生きるとされています。現在では「クロカン」を持つアブラツノザメは少なくなりました。

故永持孝之進会長/著書「夢と志」
Aから始まる理研ビタミンストーリー *1

1-2. サメ肉の需要

北海道・東北地方のアブラツノザメの漁獲量は、1950年代のピーク時には6万トン近くもあったようです。肝臓は肝油の原材料に、肉は食用と「ボタン竹輪」に利用されました。「ボタン竹輪」は、魚肉のすり身を巻いた後に表面に油を塗り焼くことで作られ、焦げ目が牡丹の花のように大きくきれいだったことに由来しているようです。石巻で大正時代初期に開発された「ボタン竹輪」はアブラツノザメを主原料としていますが、石巻ではアブラツノザメの水揚げが減少したため、沼田磯吉氏がアブラツノザメを求めて大正7年(1918年)に資源が豊富な青森に拠点を構え、そこから全国に「ボタン竹輪」を広めました。(日本かまぼこ協会)。魚が豊富で次から次へと売れるので、アブラツノザメの産業は大いに盛んになりました。「ボタン竹輪」のおいしさは瞬く間に有名になり、特に青森のものに限るという理由で大変人気が高まりました。大正天皇にも献上されたという話も聞いています。戦後は「ボタン竹輪」と言えば青森、ということで竹輪相場は青森がつくるようになりました。人気商品「ボタン竹輪」工場が戦後次々とできました。青森市港町莨町といった堤川沿いには、「ボタン竹輪」の製造工場がいくつもありました(丸石沼田商店、イゲタ沼田商店、三金商店、千葉傳商店、根市商店、山石石川商店など)。冬に大量に漁獲されたアブラツノザメは竹輪工場に買われ、冬の冷たい堤川に、各社が陣地を決め縄に括ってアブラツノザメを沈め保管して使っていたと聞きます(父健二の記憶)。肝臓は肝油へ、肉は食用(地元消費、東北・関東出荷、竹輪原料)に利用され、需要は多くありました。
弊社は、地元のサメ需要に対応するだけでなく、全国の「ボタン竹輪」製造会社にアブラツノザメの肉を出荷しました。石川県のスギヨさんにもずいぶん使っていただきました。スギヨさんは、1952年にアブラツノザメの「ボタン竹輪」にアブラツノザメの肝油を混ぜ「ビタミン竹輪」として販売し大ヒットしたとされています。また、皮をむいたサメ肉は、地元利用・「ボタン竹輪」向けだけでなく、背骨をつけた皮むきドレスの状態で木箱に詰めて凍結され、タンパク質が不足していた東京他全国にも出荷されました。
サメを取り巻く状況は、昭和34年(1959年)に資源の豊富なスケソウ鱈を使った冷凍スケソウスリミを練り製品に使う技術が開発されると一変し(日本かまぼこ協会 *2)、昭和40年代(1965年以降)にその技術が普及したことでサメの利用は一気に減っていきました。平成に入ると練り製品自体の需要が減り、流通形態の変化に伴う価格競争によって採算も合わなくなっていきました。青森堤川沿いの竹輪工場は次々と店をたたんでいきました。沼田商店さんの「ボタン竹輪」は、現在青森市堤川沿いの「株式会社さんじるし丸石沼田商店」さんと、港町の「株式会社イゲタ沼田焼竹輪工場」さん、八戸ではマルヨ水産さん、石川県のスギヨさん他に引き継がれ、現在も全国に販売されています。しかし、現在の「ボタン竹輪」の主原料はスケソウスリミが主となっていて、かつての主要原料であったアブラツノザメの使用割合は現在ほとんどありません(すり身におけるアブラツノザメの割合は5%以下)。近年では、宮城県石巻の水野水産さんを中心として「ボタン竹輪」の復活事業が起きています。弊社でも、後述するようにアブラツノザメを大量に使用した「元祖ボタン竹輪」に近い「鮫肉竹輪」を開発しました。化学調味料だけでなく、うま味調味料すべてを抜いてしまい、魚のすり身が持つ本来のうまみ(スケソウダラには味がほとんどないので、実はサメ肉のうまみ)のみで勝負しています。

青森県庁「青森のうまいものたち」から *3

サメのすくめ
サメのすくめ
サメの醤油つけ焼き
サメの醤油つけ焼き
サメの蒲焼き
サメの蒲焼き
サメの刺身
サメの刺身
さめ節
さめ節
できるだし「さめ節MIX」
できるだし「さめ節MIX」

青森

イゲタ沼田焼竹輪工場さんの「ボタン竹輪」
イゲタ沼田焼竹輪工場さんの「ボタン竹輪」*4
さんじるし丸石沼田商店さんの「ボタン竹輪」
さんじるし丸石沼田商店さんの「ボタン竹輪」*5
マルヨ水産さんの「ボタン竹輪」
マルヨ水産さんの「ボタン竹輪」*6

そのほかの地域

スギヨさんの「ビタミン竹輪」
スギヨさんの「ビタミン竹輪」*7
石巻 水野水産さんの「ぼたん焼竹輪」/カネテツデリカフーズさんの「煮込み竹輪」
石巻 水野水産さんの「ぼたん焼竹輪」/カネテツデリカフーズさんの「煮込み竹輪」
田向商店 アブラツノザメ肉を40%入れたすり身の「ボタン竹輪」(委託加工)
田向商店 アブラツノザメ肉を40%入れたすり身の「ボタン竹輪」(委託加工)

1-3. 人工ビタミンAの開発と肝油需要の縮小

肝油製造は1950年代に合成ビタミンAの技術が開発されてから徐々に衰えていき、1970年以降、天然ビタミンAの需要はほとんどなくなってしまいました。需要がなくなったために、漁獲努力量もそれにつられて減っていったということであります。漁業者がアブラツノザメを狙って漁獲しなくなったため漁獲量もそれに伴い減少し、それによって加工業も衰退し、最終的には竹輪工場も淘汰されていったようです。弊社は、肝油製造をやめてからも、青森や築地においてアブラツノザメの肉の需要が十分にあったことから鮫利用事業を継続しました。
国内のアブラツノザメを使って「ボタン竹輪」を製造していた業者さんたちは、国内のアブラツノザメ漁獲量が減ったために、1995年頃には米国からアブラツノザメの肉を購入して対応するようになりました。しかし、それも、2000年頃に米国の漁獲規制によって安定供給が見込めなくなり、アブラツノザメの使用量は減らされることとなりました。

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