論文 2025/03/19   2025/03/20    竹渕 泉

発酵の視点から見た上越サメ食文化の研究

1.緒論

2013年(平成25年)12月、ユネスコ無形文化遺産に「和食;日本人の伝統的な食文化」(以下、「和食」)が登録された。「和食」は、「日本特有の気候・風土の中で育まれてきた『自然の尊重』を土台とした日本人の伝統的な『食文化』」であるが 1)、現在、その伝統的な食文化の保護・継承が1つの課題となっている。実際、農林水産省の消費・安全局が2021年度(令和3年度)に行った「食に関する意識調査」の結果 2)、郷土料理や伝統料理を「月に1回以上」食べている人の割合は61.7%であり 2)、前年度の同調査からは17.1ポイント増加しているが3)、「地域や家庭で受け継がれてきた伝統的な料理や作法等を受け継ぎ、伝えている国民」の割合は43.9%となっており、前年度からは6.5ポイント減少している 2)
また、同調査では、「食文化を受け継ぐために必要なこと」についての回答も得ており、最も高かったものは「親等から家庭で教わること」の90.9%で、次いで「子供の頃に学校で教わること」の48.9%となっていた 2)。これは、食文化保護・継承における学校教育、特に、家庭科などの授業や給食の重要性を改めて示唆する結果といえよう。新潟県における「和食」としては、郷土料理として知られる「のっぺ」や、村上地方の「鮭」の食文化などがあげられるが、ここでは上越地域のサメ食文化を取り上げる。上越サメ食文化の特徴を明らかにするとともに、その保護・継承における学校教育、特に、家庭科の役割と課題について検討した。また、上越は「発酵のまち」と呼ばれ 4)、日本酒、ワイン、味噌、醤油、漬物など発酵食品が豊富である。そこで、発酵の視点からサメ食文化に考察を加えた。

上越地域のサメ食文化を研究するにあたり、上越教育大学の学部2年生を対象にアンケート調査を実施した。実施時期は、2021年(令和3年)12月と2022年(令和4年)4月の2回である。
2021年の調査対象者は143名であり、そのうち「新潟県外出身者」が101名、「新潟県上越地域出身者」が7名、「新潟県上越地域以外出身者」が35名であった。「新潟県上越地域出身者」以外の136名に対して、「あなたが驚いた上越地域の『食文化(食べ物)』について教えてください。書き方は自由です。」という質問をしたところ、8名についてサメに関する記載が見られた。
同様に、2022年の調査では、「新潟県上越地域出身者」の1名を除く、53名のうち、サメに関する記載をした者が4名あった。
いずれの調査においても、「あなたが驚いた上越地域の『食文化(食べ物)』」としてサメをあげる者が数名いたことから、上越地域以外から来た者にとってサメ食文化はそれなりに印象的なものであり、未来に残すべき文化であることが示唆される。
また、同じ新潟県でも上越地域以外の出身者においてはサメについての記載があることから、サメ食文化が新潟県内でも上越地域に特化したものであることが改めて確認された。
その一方で、2021年の調査において「新潟県上越地域出身者」の7名に「学校給食等で、サメ料理を食べたことがありますか?書き方は自由です。」という質問をしたところ、全員から食べた経験があるとの回答が得られ、学校給食でサメの献立が出ていることや、お正月に家庭で食べていることが確認された。2022年の1名についても、同様の回答が得られた。
よって、現時点において、上越地域のサメ食文化は、ある程度は保護・継承されているものと推察されるが、その一方で学校給食の果たす役割も大きいものと考える。なお、アンケート調査の詳細については、「資料」に掲載している。

2.上越地域におけるサメ食文化について

2-1.サメ食文化の歴史的背景

日本人とサメとの関係は古く、鳥取市の青谷上寺地(あおやかみじち)、兵庫県豊岡市の袴狭(はかざ)、島根県出雲市の白枝荒神(しろえだこうじん)といった日本海側の弥生時代の遺跡からは、サメの絵が描かれた土器や木製品が出土している 1)。近年、鳥取県立博物館が所蔵する弥生時代中期頃(紀元前2世紀)の銅剣にも、サメの絵が刻まれていることが確認されている 1)。同じく日本海側という点において、古事記の「因幡の白兎」における兎とサメの神話は、一般にも広く知られているところである 2)
なお、銅剣に描かれたサメは、その形から「シュモクザメ」と思われ、「特異な姿をしたシュモクザメを神格化した信仰圏が、日本海沿岸を中心に広がっていたのでは」などの推測がなされている 1)。また、「何度も生え替わる歯やアンモニアを含んで腐りにくい肉を、再生や長寿の象徴としていたのかも」との説もあるが 1)、食料が限られていた当時、捕獲されたサメを人々が食用としていたことについても容易に想像することができる。
新潟県上越地域における当時の遺跡としては、吹上遺跡、斐太(ひだ)遺跡、及び釜蓋(かまぶた)遺跡からなる斐太遺跡群(国指定文化財)が知られている 3)。これらは「高田平野南部の丘陵地から平野部の半径約1.5キロメートルという狭い範囲の中で、弥生時代から古墳時代にかけて存在した拠点的集落」とのことであり、その出土品からは「いずれの遺跡も、この地域が青田川の扇状地で水田耕作に適していた」ことや、「日本海側と長野方面を結ぶ交点だったことから地域間交流の拠点であった」ことを、うかがい知ることができる 3)。ただし、今のところ、サメを食用としていたという明確な情報は得られていないようである。
江戸時代以降になると、上越地域のサメとの明確な関係性を示すような情報も増えてくる。上越市の中心に位置する高田城は、1614年(慶長19年)に徳川家康の6男である越後大守・松平忠輝が江戸城を模倣してつくった平城(ひらじろ)であるが、近代築城術を応用した上、幕府の命による国役普請(くにやくぶじん)であったため、その規模は広大であった 4)。築城の際、サメの歯が多く見つかったことから、別名「鮫ヶ城」とも呼ばれており、この地域の人々がサメと関わりの深い生活を営んでいたことは明らかである 4)。なお、サメの歯はお守り、魔除け、勇気の象徴といった意味もあることから、城を守る守護神としてサメを城の冠にして「鮫ヶ城」と呼んでいたとの説もある 5)

上越地域のサメ食文化に関する最も古い記録の1つが、江戸時代に行われていた長崎唐人貿易について述べられたものである。江戸幕府は、1641年(寛永18年)までにキリスト教の弾圧、貿易の独占と統制、日本人の海外往来の禁止を行い、鎖国を完成させたが、完全に遮断されていたわけではなく、長崎、対馬藩、薩摩藩、松前藩などを介して情報を収集し、世界経済とつながっていたようである 6)。長崎唐人貿易は長崎における中国との貿易のことであり、当時輸入していた生糸、織物、医薬品などの決済には金銀銅が使われていたが、流出が増加してしまったため、その代わりとして輸出されるようになったものが「俵物三品」とのことである。「俵物三品」とは、中国人が不老不死の美食として好んだ、煎海鼠(いりこ)、干鮑(ほしあわび)、そしてフカヒレのことであり、これらの海産物を俵に入れて輸出したことに由来するそうである 5)。煎海鼠とは干したナマコ、干鮑とは干したアワビ、フカヒレとはサメのヒレのことである。
中国へ輸出のための生産を始めた1697年(元禄10年)は、煎海鼠と干鮑の2品で、その後、1765年(明和2年)頃からフカヒレが加わったとのことである 5)。フカヒレ生産は、頸城と出雲崎、寺泊の限られた地域で行われていたとのことである。当時の高田藩は財政再建中であったため、フカヒレを売買し、その運上金を財政に充てようとしていたとのことで、ヒレを切り取った残りが領民のごちそうとして広まったようである 5)。特に、フカヒレの生産が軌道に乗った嘉永年間(1848~1855年)には、頸城地域(上越地域)で最も盛んにサメが食べられていたと考えられている 5)。嘉永年間に多くのサメが食べられていたことは「丸山家(正男)文書」(新井市史)にも記されており 7)、西野谷村で庄屋(町役人)を勤めていた丸山家が、1851年(嘉永4年)、高田大丸屋から購入した品の中には「塩さめ」「さめ(生)」「さめくず」などの記録が見られる。「さめくず」とは蒲鉾を製造するときに、不要となった頭、皮、骨などを指すとのことである 5)
「新潟県水産誌」の記録によると、フカヒレの生産は幕末の嘉永のころには、越後の西頸城地方(現在の名立区と糸魚川市)と佐渡を合わせて14,000~15,000斤(8,400~9,000トン 斤=500g)に及んだとのことである 5)。しかし、「佐渡年代記」においては、干鮑と煎海鼠のみの記録であったことから、佐渡のフカヒレの生産量は少なく、西頸城地方の生産量が圧倒的に多かったものと推測されている 5)。他にも、サメの漁場をめぐって紛争が起きていることなどから、サメ漁を専門とする漁師がいたこともうかがい知ることができる 5)。江戸時代中期に執筆された「越後名寄」では、サメは「浦々ニ四時在、冬月多ク捕テ漁人ノ利トナル事鰮ニ亜リ」と記されており、越後国の沿岸にサメが一年中生息していたことや、冬期の水揚げ量が多かったことを知ることができる 8)

このように以前は、上越近辺の海域で日常的にサメが捕獲され、食用として用いられていたと考えられる。しかし、現在、上越地域においては、サメの生息場所(エリア分け)が変化していること、サメ漁師がいなくなってきていること、サメ自体を獲らなくなったことなどの理由から、その漁獲量は減り、三陸(気仙沼)がその主産地となっている。その理由の1つとして、サメ漁は、通常「はえ縄漁(1本の幹縄に釣針のついた枝縄を海中に垂らし、魚がかかるのを待ってから釣り上げる漁法)」で行われるが、近年の上越では「底びき網漁(海底に袋状の網をおろして曳いて、海底付近にいる魚を捕る漁法)」が主流となっている点があげられる 9)

一印上越魚市場では、毎年12月27日に恒例のサメの競りが行われるが、2021年(令和3年)の競りにかけられたものも全て、気仙沼産の「ネズミザメ」(19匹)であった。なお、競りの概要であるが、気仙沼から入荷されたサメは、まず、サメ切り包丁で4~5分割の筒切り(輪切り・ぶつ切り)にされ、重さが書かれたラベルが貼り付けられた後、氷上に並べられる(図2-1)。競りは午前7時に始まり、スーパーマーケットや鮮魚店の担当者らが鮮度や肉質を見極めた上で順番に切り身を競り落としていくのだが(図2-2)、競り落とされたものには、店名の記された札が置かれ(図2-3)、競りは10分程度で終了する。
2022年(令和4年)の競りにかけられた「ネズミザメ」(18匹)も全て、気仙沼産であった。また、一印上越魚市場の尾崎社長は、「毎年、オスとメスが半分ずつくらいであるが、今年は全てオスであり、メスと比べて身が締まっているため美味しい」と話していた。なお、オスとメスの判断は生殖器から判断することができるそうで、サメ切り包丁で筒切りにするときに、内臓とともに切り落とされるとのことであった。例年は、競りが始まる前の午前3時頃に筒切りにされるが、オスの生殖器には骨、トゲ、大きな鱗もあることから切るのに時間がかかるという理由で 10)、2022年は前日に筒切りにしたとのことであった。

図2-1.サメ切り包丁で筒切りにされたネズミザメの写真
図2-1.筒切りにされたネズミザメ
(2021年(令和3年)12月27日撮影)
図2-2.競りを行っている様子の写真
図2-2.競りを行っている様子
(2021年(令和3年)12月27日撮影)
図2-3.競りの後に店の札が貼られた様子の写真
図2-3.競りの後に店の札が貼られた様子
(2021年(令和3年)12月27日撮影

2022年(令和4年)の競りにおける、18匹のサメの全体の重さ及び筒切りにされた時の切り身の重さの内訳は、表2-1の通りであった。頭の部分に、1~18までの番号と全体の重さが書かれたラベルが貼られており、切り身には、それぞれの重さが書かれたラベルが貼られていた。図2-4のようにサメを見た時、ラベルに書かれている重さを表2-1にまとめた。

図2-4.重さを示すラベルが貼られたサメの切り身の写真
図2-4.重さを示すラベルが貼られたサメの切り身
表2-1.各サメの切り身の重さ
表2-1.各サメの切り身の重さの表画像

競りにかけられる「ネズミザメ」の数について、2017年(平成29年)の時点において西脇は「昭和50年頃には、年末、12月25日~30日の5日間で150本程度(1本の重さ50~60㎏)販売していたと記録しているが、ここ数年は、30~50本くらいまで減少している。」と述べている 11)。また、一昨年、2020年(令和2年)の競りでは、重さ50~95㎏の「ネズミザメ」が23匹 12)、昨年、2021年(令和3年)は、40~70㎏のものが19匹、今年、2022年(令和4年)は、50~80㎏のものが18匹となっており、ここ数年を見てもその減少は明らかである。
競り落とされたサメは、27日の午後から店頭に並ぶことになる。また、その時点でのサメの販売傾向について、先行研究では、2020年に上越市、妙高市、及び糸魚川市のスーパーマーケットを対象に調査を行っている(表Ⅱ-2・図Ⅱ-6)。その結果、糸魚川市における販売は確認されず、サメ食文化が上越地域の中でも上越市と妙高市に特徴的なものであると述べられているが、これは先述のアンケート結果と同様の結論といえる。
なお、上越市と妙高市に至る限られた地域で食べられている背景には、旧北国街道(図2-5)が関係しているかもしれない。旧北国街道は、中山道追分宿(現在の軽井沢町)から分岐し、高田城下までを結ぶ道である 13)。上越市史 14)によると、「今町に入荷した塩干魚は、今町の四十物屋(あいものや)が町内・近在に商うほか、高田田端町や小町の問屋に送られた。ここで高田の町内や近在に売りさばかれたが、多くの荷がさらに信濃方面に運ばれていった」とのことである。今町は現在の直江津、田端町は高田のことである。その際、主として旧北国街道から運ばれたとある。

図2-5.旧北国街道(資料 13) を参考に作成)の地図
図2-5.旧北国街道(資料 13)を参考に作成)
表2-2.上越地域のスーパーマーケットのサメ販売状況( 15)より改変)
表2-2.上越地域のスーパーマーケットのサメ販売状況(15)より改変)の表画像1 表2-2.上越地域のスーパーマーケットのサメ販売状況(15)より改変)の表画像2
図2-6.上越地域のスーパーマーケットのサメ販売状況(文献15より改変)の地図
図2-6.上越地域のスーパーマーケットのサメ販売状況(文献 15)より改変)

先行研究を参考に、2022年(令和4年)12月27日の15時30分頃から18時頃にサメの販売状況の調査を行った(表2-3・図2-7)。対象とした店は、上越市から妙高市に至る、原信・ナルス4店舗、イチコ4店舗、日本海鮮魚センター(新井店)、クスリのアオキ(上越昭和町店)の計10店舗である。日本海鮮魚センターは、当日、サメの頭(図2―13)を競り落としていた株式会社ニッカイ米山の店舗であり、クスリのアオキは、競りには参加していないが、日常的にサメの切り身が販売されているため、調査対象に加えた。各店舗を調査した時点で、店頭に並んでいたパックの数を数えた。ただし、既に購入された場合もあり、また、調査した時間も店舗によって異なるため、店舗間の販売量の比較を行うことはできない。競りにかけられたのは「ネズミザメ」であるが、「アブラツノザメ」も店頭に並んでいたため表に反映した。
調査した全ての店舗において、サメの販売が確認された。また、実際に販売されている様子を図2-8~14に示した。イチコ直江津西店を調査した際に、店員の方から話をうかがった。12月27日から30日の午前中まではサメが売れるため、27日の競り後もサメを追加で入荷して販売すること、直江津地区の店舗では、高田地区と比べて「ネズミザメ」のパックが並ぶ量は3分の1程度であることをうかがうことができた。さらに、27日に競り落としたサメの全てがその日のうちに店頭に並ぶわけではないことも知ることができた。実際に、27日に競り落としたサメが、28日の18時頃に店頭に並んでいることを確認した。売り場では27日に競り落とされた新鮮なサメであることや、サメが上越の郷土料理であることが書かれたポップとともに販売されていた(図2-15・16)。
ナルス高田西店を調査した際に、「皮」を2パック購入した女性に話をうかがった。煮凝りを作る予定であることや、周りの同年代の人で作る人はほとんどいないことをうかがうことができた。他にも、サメを食べることが、上越地域ならではの食文化であるという意識をもっていること、孫が来た時にはサメの切り身を購入しフライにすること、他の人からすると自分のつくる煮凝りがおふくろの味らしいといった話もうかがうことができた。

表2-3.上越地域のスーパーマーケットのサメ販売状況(2022年)
表2-3.上越地域のスーパーマーケットのサメ販売状況(2022年)の表画像
図2-7.調査を行った店舗(2022年)の地図
図2-7.調査を行った店舗(2022年)
図2-8.ふかざめにこごり(2022年(令和4年)12月27日 イチコ直江津西店)の写真
図2-8.ふかざめにこごり
(2022年(令和4年)12月27日 イチコ直江津西店)
図2-9.ふかざめ(皮)切身(2022年(令和4年)12月27日 イチコ直江津西店)の写真
図2-9.ふかざめ(皮)切身
(2022年(令和4年)12月27日 イチコ直江津西店)
図2-10.上物ふかざめ切身(ヌタ用)(2022年(令和4年)12月27日 イチコ直江津西店)の写真
図2-10.上物ふかざめ切身(ヌタ用)
(2022年(令和4年)12月27日 イチコ直江津西店)
図2-11.ふかざめ切身(2022年(令和4年)12月27日 イチコ直江津西店)の写真
図2-11.ふかざめ切身
(2022年(令和4年)12月27日 イチコ直江津西店)
図2-12.店内の鮮魚売り場の様子(2022年(令和4年)12月27日 イチコ直江津西店)の写真
図2-12.店内の鮮魚売り場の様子
(2022年(令和4年)12月27日 イチコ直江津西店)
図2-13.「ネズミザメ」の頭(2022年(令和4年)12月27日 日本海鮮魚センター新井店)の写真
図2-13.「ネズミザメ」の頭
(2022年(令和4年)12月27日 日本海鮮魚センター新井店)
図2-14.ぬた用サメ(2022年(令和4年)12月27日 日本海鮮魚センター新井店)の写真
図2-14.ぬた用サメ
(2022年(令和4年)12月27日 日本海鮮魚センター新井店)
図2-15.店内の様子(2022年(令和4年)12月28日 イチコ高田西店)の写真
図2-15.店内の様子
(2022年(令和4年)12月28日 イチコ高田西店)
図2-16.商品説明が書かれたポップ(2022年(令和4年)12月28日 イチコ高田西店)の写真
図2-16.商品説明が書かれたポップ
(2022年(令和4年)12月28日 イチコ高田西店)

2-2.上越地域で食用とされるサメの種類

2016年(平成28年)3月時点で、世界のサメ類として9目34科105属509種、日本産のサメ類としては9目32科64属130種が認められている 1)。その中で、主に上越地域で食用とされるサメは、「ネズミザメ(モウカザメ)」「アブラツノザメ(ボウサメ)」「ヨシキリザメ」である 2)。それぞれのサメについてまとめたものを表2-4に示した 1) 3) 4) 5)

表2-4.上越地域で食用とされるサメについて
表2-4.上越地域で食用とされるサメについての表画像

画像は水産庁 国立研究開発法人水産研究・教育機構 3) 4) 5)より引用

「ネズミザメ」や「アブラツノザメ」は図鑑等に記載される際の名前で標準和名といい、「モウカザメ」や「ボウサメ」は地方名である。スーパーマーケット等で販売されるときには、地方名で売られている。「モウカザメ」と呼ばれるようになった由来について、「ネズミザメ」が、サメの代表種であるという意味で「真鱶鮫(まふかざめ)」と呼ばれ、訛ったことで「モウカザメ」と呼ばれるようになったと考えられている 6)。モウカには「毛鹿」という漢字があてられている。サメが店頭に並ぶときの名称は決められていないようで、店舗によって異なる。例えば、「ネズミザメ」は「さめ切身」「ふかざめ(もうか)」等がある。「アブラツノザメ」は「ボウサメ」「棒さめ」「むきさめ」等がある。店舗ごとに名称は違うが、同じ種類のサメを示している。
サメの種類によって食用のされ方も異なる。「ヨシキリザメ」のヒレはフカヒレとして、身はすり身にされ蒲鉾の原料として利用される 7)。これは、「ヨシキリザメ」の肉質が水っぽいからだという 8)。一方、「モウカザメ」の身は蒲鉾には不適切とされており、煮物や焼き物、揚げ物などで食べるために切り身で利用される 7)。このようなサメの特徴から、上越地域のスーパーマーケットでパックとして販売されているのは「モウカザメ」がほとんどであり、春頃を中心に「ボウサメ」を購入することができる。スーパーマーケットで購入した「モウカザメ(図2-17)」はフライや唐揚げの調理を勧めており、「ボウサメ(図2-18)」は煮付けを勧めていた。

図2-17.モウカザメ(もうかさめ)のパック(2021年(令和3年)6月18日 クスリのアオキ上越昭和町店で購入)の写真
図2-17.モウカザメ(もうかさめ)のパック
(2021年(令和3年)6月18日 クスリのアオキ上越昭和町店で購入)
図2-18.ボウサメ(棒さめ)のパック(2022年(令和4年)3月29日 クスリのアオキ上越昭和町店で購入)の写真
図2-18.ボウサメ(棒さめ)のパック
(2022年(令和4年)3月29日 クスリのアオキ上越昭和町店で購入)
ページトップへ