日本サメ漁業の歴史と伝統
5. サメ延縄漁業の遠海出漁
サメ延縄漁業は、長門豊浦郡阿川浦で延宝6年(1678)に営まれた記録があり、これが記録上最古のものだろう(17)。
ついで、マグロ・サメ浮延縄漁業として、安房国布良で延享年間(1744-1747)に営まれていた(22)ことが『日本水産捕採誌』にみえ、同書に、サメ底延漁業として、長門玉江浦、鶴江浦および豊後佐賀関、中津浦が先進地であったとある(22)。長門、豊後のものは江戸時代後・晩期におこってきた。ところで、以上の豊浦郡阿川、安房国布良、豊後佐賀関は、海女の分布地でもある。
三章で五島・対馬・北九州宗像周辺の海人とサメ漁について述べたが、この海人=白水郎が宗像海人で、後の鐘ケ崎海女の系譜であるなら、海女・海士とサメ漁撈民がもともと同一漁撈民であっても不思議ではない。
サメ延縄漁業の先進地である玉江浦や佐賀関などでは、文化年間のころから勢い遠海へ出漁しようという気運が高まってくる。彼の地の漁民は大型のサメを捕るための技術改良を始めた。
漁具・漁法の改良としてはこれまでのサメ延縄の幹縄を太くしかつ強度をまし、先述のとおりサメに喰いちぎられないよう枝縄を真鍮線の鎖にかえ、釣針も大きなサメを釣るのに耐えられるものにした。おそらく、他にもサメを船にとりこむ際の銛やカギも改良考案されたであろう。
漁船についてみると、「長門萩の玉江浦の原田与三郎(中略)は早くより自由に漁業のできる沖合への出漁をすすめ、文化2年(1805)には見島沖に出漁したが、遠方に出かけるには大型の船」が必要だと痛感し(23)、「長さ一丈六尺五寸、胴幅六尺五寸」の鱶延縄漁船をつくる。これを「長さ一丈八尺五寸、幅を八尺五寸にしたるより、遠洋に航するに至り」、天保10年(1839)「甲板を張りたるより潮水浸入することなく養餌魚室を設けたるが為めに塩蔵魚餌を止め活魚を用ふるの便を得且つ帆檣宜しきを得て航行快走百四十里の海を十六時間に達するに至りしなり是日本漁船中遠洋漁の魁たるものなり(24)」と『水産改良説』に記されている。
玉江の原田与三郎に遅れること約30年、明治初年(1868)豊後佐賀関の仲家太郎吉も同様のフカ延縄船を考案創作した。それは「船体構造すこぶる堅牢にして、諸般の用意また周到なり。(中略)厚さ二寸五分の隔板を用いて、敷板・中棚・上棚板を固着す。その枚数八枚にして、艙内を九区に分割せり(25)」、というから現代の船とほとんど変わらない構造である。甲板を張り船鎗を区切ることで、ロ-リング時の船の復元力が増し、少々の時化はものともせず、したがって沖での操業にも耐え、かつまた他の改良点も加えて、鶴江の岩崎勘次郎は一航海7ケ月という今日の遠洋漁業に匹敵する長期航海(旅漁)をしている(22)。
ただし、長期航海を可能にしたのは、こうした漁船の技術改良とは別に、フカ延縄船がサメのヒレのみを目的にしていたことが大きな要因である。マグロ漁やカツオ漁では、漁獲物鮮度保持から不可能であった。つまり、サメを捕獲し、腐敗しやすい胴体部分は海上投棄し、フカヒレ材料のヒレだけを塩蔵保存していたからで、このヒレが船鎗いっぱいつまるまで沖で操業できたのである。したがってこのころのサメ延縄漁業の遠洋化の背景には、江戸時代から明治にかけての俵物であるフカヒレの輸出があった。
江戸幕府の田沼意次が「金銀の輸入を策し宝暦十三年(1763)より対華貿易に銀を用いることを止め銀二百貫に銅三十万斤の相場を定め銅七分俵物三分の割で渡すごとにきめた(20)」のが俵物輸出の始まりである。
俵物(正式にヒョウモツ、俗にタワラモノ)とは干飽(ほしあわび)・海参(ほしなまこ)・簸鰭(ふかひれ)の三品をさす。
フカヒレは、小型のサメからは取れず、大型のサメの背ビレ1枚、胸ビレ2枚、尾ビレ1枚計4枚を1組としたものである。江戸時代後期以降にサメ延縄漁が西日本各地におこってきたのは、それまで残杯ものにすぎなかったヒレに高い商品価値がつけられたことによる。
俵物輸出は、幕府の集荷体制の変化により3期に分けられ、その第1期・2期の俵物全体にフカヒレの占める割合は、1,4パ-セントと2,8パ-セントであったのが第3期に7,3パ-セントに増加した。第3期が始まったのが文化3年(1806年)、玉江浦の原田与三郎が、遠海出漁のため見島沖にサメ延縄漁の試験操業を行った翌年のことである。フカヒレ輸出量が急増したのは、江戸時代俵物輸出の基幹であった海参(干しナマコ)が激減したことによる。その不足分を補おうと強力なフカヒレ生産奨励策を西国諸藩が講じ、それに付随する問屋資本が利潤追求を強め、そこに漁具・漁法および漁船の技術改良があった。
見方を変えれば、この時期フカヒレの政府買上流通と拮抗していたヤミ流通によるフカヒレ価格の高騰が、玉江浦の原田や佐賀関の仲家らに巨額を要したサメ延縄の漁具・漁法の改良をうながし、遠海出漁のための特別な漁船をも創らせた、というべきである(26)。また一方で、彼らが遠海出漁に乗り出した背景に当時の浦社会の矛盾があった。
江戸時代の漁業は、「磯猟は地附根附次第や、沖は入会」と定められ、おおかたの漁業が地付・根付とよばれた沿岸沖合3里くらいまでの範囲で営まれていた。つまり内海や内湾、外海に面したところでは、自分達の浦のすぐ前の海に限られていたが、カツオ。マグロ漁およびサメ一本釣・延縄漁は、入会の沖合で行われていた。なかでも寛保2年(1742)の『漁猟海川境論』という徳川幕府の漁業規則には、「鮫猟は海中十四五町之内除也」とあり(25)、サメ漁業は沿岸での操業を認められなかった。沖合15町といえば、当時の漁民にとってまさに「板戸一枚下は地獄」の海域であったから、実質上幕府はサメ漁業を漁場から締め出したのである。当時俵物の前身である諸色海産物の品目にはフカヒレはなく、これがそのひとつに加わるのは明和元年(1764)で『漁猟海川境論』発行22年後のことである。当時同じく沖合漁業のひとつカツオ漁業は紀州や土佐藩などで手厚く保護されていたので、サメ漁とは対遇面で対照的であった。
漁業慣行ひとつとってもわかるように、当時サメ漁業を営んでいた漁民は浦社会で「のけもの」であり、漂泊生活を常としていたと思われる彼らは、どの村でも「よそ者」であって、一船漁民からも差別視されていた。このことについては、熊本県天草の明治・大正期の証言として「天草漁民聞書」に具体的事例として語られている(27)。
江戸時代も後期になると、沿岸地先漁場の狭隘化により漁場紛争が多発するが、この時期、玉江浦の原田は、「自由に漁業のできる沖合へ」出漁しサメ延縄漁を行い、また佐賀関の仲家は自ら「大フカを捕らえんと欲し(中略)漁具漁法改善するも、一般漁民の妨害に遭うて実施するを得ず。ここにおいて意を遠洋漁業に決し(中略)四国、九州、沖縄、韓国等の海洋航行し、風濤の危険を冒して」漁場開拓した、と語っている(27)。
以上のように、サメ漁民の排斤が、彼らを遠洋へと駆り立てたのである。それにしても、未知の海域へ飛び出すのは一般漁民にできなかったことで、もともと彼らが宗像海人の系統の漁民であって、往古より自由に日本海を渡って朝鮮と往来していた歴史があったからこそ成し得たのではないだろうか。
中世の荘園制度につづく近世の領主の土地支配に伴って、海上でも地先漁業の囲い込みが進行するにつれ、自由航行・自由出漁といった海人の特権がつぎつぎ剥奪されていく。近世以降も一部にこうした特権はみうけられるが、結果彼らは海女稼ぎや船住いにより移動仮泊しながらの一本釣・延縄漁・刺網漁・手繰網漁、また磯突きなどで網と暮らしていたが、どこへ行ってもそこの漁民の排斤にあった。その不満が、遠海出漁として一気に噴き出したのではないか、と考えられる。
6. サメ延縄漁業瀾熟期
ここに玉江浦、鶴江浦および佐賀関のサメ延縄漁船の遠海出漁と漁場開拓の経緯を山口和雄、『日本漁業史』(1957)にみると次のとおりである。
長門阿武郡鶴江及び玉江浦は早くから遠海漁業の発達せるところであった。同地の遠海漁業中最も重要なのはタイ延縄だったが、サメ延縄もこれに次ぐ重要なものだった。「山口県鶴江浦漁業事跡」には、「同年文政元年八月十日漁船十七艘鱶延縄ヲ準備シ同国壱岐二向ケ航行シ前回二探検セシ伊興釣沖合ナル漁場二至リ第一著二鱶縄ヲ試ミタルニ大収利アル而巳ナラス鰤魚モ亦当浦ノ捕獲アリシヲ以テ壱岐国近海ニテハ鯛鰤鱶釣ト確定シ筑前博多肥前唐津ノ各地二販売問屋ヲ定メ特約を結べリ」とある。
当時のサメ縄は長さ三百尋に鈎12本を附したもので、之を漁船一艘に16籠準備し、外豫備として同数量の縄を用意した。次で対馬漁場にも出漁し、天保元年よりは朝鮮にまで出漁して漁獲物は内地に輸送販売した。出漁船も次第に増加し、文政10年20艘、天保10年26艘、嘉永2年27艘に増加した(17)。
玉江浦もほぼ同じ経緯で「文政六年(1823)には壱岐(中略)文政九年(1826)には筑前大島、平戸沖に出漁し、同一〇年には対馬にわたった。さらに天保元年(1830)には朝鮮近海まで出かけていった)と見られる(21)。
豊後佐賀関の仲家太郎吉が、「四国、九州、沖縄韓国等の海洋に航行し」たことはすでに述べた。『日本水産捕採誌』(1912)には、佐賀関の漁民は、豊後水道から土佐沖、「遠きは薩摩、大隅、琉球近海又は伊豆及び小笠原等諸島に於いてするものもあれど現今は多く朝鮮全羅南道の南海を主と」し、「浮延縄をも為さゝるにはあらず、されども主たる捕獲の目的は『マブカ』、『ドタブカ』(略)『シロフカ』『カツヲブカ』、『ヒレタカブカ』、『ヤジブカ』等概ね体量五十貫匁小なるものと錐も十貫匁以上にして海底に沈栖する種類なるが故に其釣法多くは底延縄を以てするなり(22)」という。つまり、延縄を海底に這わせる底延縄漁法で、メジロザメ・ドタブカ・ヤジブカなどメジロザメの仲間とネズミザメ(もしくはアオザメ)などを捕獲していたのである。漁具・漁法と漁獲対象のサメ類は玉江・鶴江をはじめ西日本の大型のサメ延縄漁業はほとんど同じであった。
現行のサメ延縄漁業でも島根県五十猛、高知県土佐清水、沖縄県糸満、20―30年前まで存在した和歌山県加太、宮崎県都農などの大型サメ延縄漁業のそれも、規模の差はあるが、ほとんど同じである。
ともかく、佐賀関のサメ延縄漁船は、はじめは太平洋に展開したが、大陸棚の少ないこの海域は底延縄漁法に適さないためか、明治11年頃から、水深200メ-トル以浅の朝鮮近海へうつったようである。
対馬海峡から朝鮮近海さらに東シナ海は大陸棚が広がり、しかもフカヒレ素材としては、金ピレと呼ばれる高級なフカヒレのとれるサメ類が多く、ヒレ目的のサメ底延縄漁業にとって最適の漁場であった。
一方、明治中期以降、青森県・山形県・宮城県・北海道南部などで、延縄を水中表・中層に浮設する浮延縄により、主としてネズミザメとヨシキリザメおよびマグロ・カジキ類を捕獲するマグロ・サメ浮延縄漁がおこってくる。主な漁場は、三陸沖合で、海溝をひかえ水深がかなり深いが、親潮と黒潮、寒暖流ぶつかりあうため、サバ、サンマなどの回遊魚が豊富で、それを求めて外海回遊性のネズミザメやヨシキリザメ、マグロ・カジキ類などが集まってくる。ことにネズミザメは、直径三〇マイルもの大きな群れをつくり、道東から三陸、一部房総近海へと回遊している。
このネズミザメとヨシキリザメのヒレは、フカヒレ素材としては二級品であっても多獲できるし、またネズミザメは、その肉がカジキ代替品として惣菜利用される。
そもそもサメ浮延縄漁業は、安房国布良で、延享年間(1744-1747)に、マグロ・サメ延縄漁業として始まったと前記した。『日本水産捕採誌』には、「漁する所は大鮪なりと雖も?く『ヨシキリ』・『アオ』・『メジロ』等の鮫をも獲ることあり(21)」と記されている。この布良のマグロ・サメ延縄が三陸沿岸から北海道にまで伝わったのだが、その様子を宮城県本吉郡唐桑を例にみてみよう。
鈴木禎次氏が宮城県知事にあてた「鱶釣業補助金下附願」(明治28年)に、「鱶・鮪釣業施行方法」として、「乗込漁夫八人ニシテ、内弐人ハ釣教師トシ、三人ハ水夫トシテ、合セテ五人ハ千葉県安房郡富崎村布艮浜ヨリ雇入レ、他ノ三人ハ見習生トシテ本吉郡唐桑村及大谷村ヨリ雇入レ乗込マシム」とある。そして旧3月中旬から6月に岩手県気仙郡より牡鹿半島金華山の沖合50-60里のところを、延縄五5鉢(1鉢=1籠、延縄の最小単位で、これを継ぎ長い1本の仕掛けにする)をもって操業したこと(28)が『唐桑町史』に記されている。
三陸・北海道など他の漁村でも、唐桑と似た経緯でサメ浮延縄漁業を導入したと思われる。ここで唐桑の場合これの導入に際し県費交付願いが出されている点には注意したい。「鳥取県でも山口(長門)、大分(豊後)両県の長縄船(鱶縄船)建造の費用を、県費で支出するよう議決されている(30)」(カッコ内樽本注)。
こうしたところに明治政府のサメ漁業奨励策があった。その背景にフカヒレ輸出があったことは言うまでもない。
江戸幕府崩壊後、俵物三品の輸出はそのまま明治政府がひきついだ。明治政府は俵物の流通から海産物加工法等詳しく調査した上で技師を派遣し、これの普及につとめ、一方で、漁船の動力化を「遠洋漁業奨励法」により推進した。
先の唐桑町などの補助金もこの一環として下されたのである。
明治時代の朝鮮出漁は、サメ漁に限ったことではないが、サメ漁についてみれば明治33年頃は年々170-180隻を数え、後母船式経営に発展するものもみえ、また漁船の大型化・動力化もすすんだという(30)。
こうした動きをフカヒレ輸出量でみると、明治元年45、264斤であったのが「うなぎ登り」に増え、明治35年には404、883斤と約9倍に達している(23)。
実は明治に入って、俵物三品のうちアワビ・海参(干しナマコ)輸出量が激減し、反対にフカヒレ輸出量が急増したのである。それはサメ漁が江戸時代あまり普及しておらず、またフカヒレもさほど注目されていなかったのが、明治政府のサメ漁およびフカヒレ生産奨励によるものと、フカヒレの高価なのが知れ渡り、サメ漁業を開始する者が増えたことが大きい。彼らは、朝鮮近海から東シナ海へまた三陸沿岸ではより沖合へと当時の新開拓漁場にちらばっていった。
ついで遠洋漁業奨励法によって奨励された漁業を表2にみると、この法発布が明治三十年で当初よりサメ漁業はオットセイ漁と共に対象になっている。三十四年にオットセイ・フカ・カツオ・マグロ・クジラ・タラ・メヌケの各漁業の枠がひろげられ、漁船の大型化と動力化が強力に推進された。サメ延縄漁業にしても漁船が大型化、動力化したことは前述のとおりだが、援助金が公布されても、それにともなう経費の増大により、むしろ収益は減少していったようである。
政府のこうした一連の漁業振興は中小資本型のサメ延縄漁業より大資本型の汽船トロ-ル漁業や後に以西底曳網漁業などに有利に働いた。これについては、二野瓶徳夫『明治漁業開拓史』(1981)にゆだねるが、ともかくこれらの漁業が日本海から東シナ海を生産基盤とし大発展をとげる。そこには、冷蔵庫の開発と漁船装備、また陸上での鉄道の発達による漁獲物広範輸送の実現があり、流通機構と一体化させた資本制漁業が確立される。こうした漁業の大潮流のもと、もともと中小資本の西日本のサメ底延縄漁業はしだいに衰えていくことになる。
一方、三陸などのサメ浮延縄漁業は、道東から三陸沖合に展開したが、この海域が水深が大きいと前に述べた。明治時代の漁業はいまだ江戸時代からの沿岸漁業の漁具・漁法の延長線上にあり、水深の大きいこの海域に適さなかったことから、これらの漁業の進出を阻んでいた。そのためマグロ・サメ延縄として発展してきたサメ浮延縄漁業は、ほとんど競合する漁業がなかった。しかも、漁獲対象を主としてネズミザメとヨシキリザメに限定されても、集約的漁獲ができたため収益性もよかった。このことがサメの安定亭給を可能にし、水揚が宮城県気仙沼に集中するにしたがい、気仙沼にフカヒレ利用のみならず、肉・皮・骨にいたるサメの総合利用形態を確立させ、サメ産業を形成する。それがサメの魚価を他と比べ高値安定させ、サメ延縄漁業を支える、といった具合に、サメを中心に漁業と産業の間に資本の循環が生まれたのである。こうして、三陸などのサメ浮延縄漁業は、西日本の沖合サメ延縄漁業にかわって、明治中期以降おおいに伸長していった。
近代のサメ漁業は、以上のように、漁業における資本経済導入を背景に、西日本と三陸など北日本で著しく対比する。