論文 2022/11/21   2022/12/29    樽本 龍三郎

日本サメ漁業の歴史と伝統

『フォークロア』 本阿弥書店 No.7

故樽本龍三郎先生が2011.8.15 Word版として改訂されていたものを転載・さめディアに掲載するために編集したものです。

1. はしがき

我が国のサメ漁業は、今や壊滅状態にある。私がこれまで調査したところでも次々と姿を消し、沖合サメ延縄漁と沿岸サメ延縄漁が各々一、二艘しか残っていない。主として近代から第二次世界大戦前後に活躍してきたサメ漁業が、こうして歴史の舞台から下りてしまうと、それに従事した漁民や彼らを支えてきたサメ取扱業者のことは、人々の記憶からさえも消えてしまう日が来るにちがいない。
それをここに記録に残しておくことは、日本の漁撈文化を解明しようとする上で、無意味とは思われない。
そこで、漁村調査から得た知見を基に、サメ漁に従事し、係ってきた漁撈民を先史時代から現代まで通観してみたい。ただし、資料の不備で、その後の彼らの方向を決定づけたかもしれないと思われる中世を欠くなど十分ではないのは残念である。
それは今後の課題として、古来日本の漁撈民が、いかにサメと対応してきたかを、いくらかでも明らかにしてみたい。

2. 先史時代のサメ遺物と西北九州型釣針

先史時代に、今日いうサメ漁があったかどうかは疑わしいが、貝塚等からサメの歯や骨がけっこう出土しているので、サメを捕獲した者たちが存在したと思われる。もしこの時代にサメ漁として行なわれていたとしても、その目的が食糧確保のためとは限らない。スポ-ツとして通過儀礼の青年式に行なわれていた可能性や、あるいは、サメを退治する目的で、サメが自分たちの浜の近くに来たところで捕って殺した可能性もある。

2-1. サメの遺物

貝塚等から出土するサメの遺物は大半が歯だけである。それはサメが軟骨魚類といわれるように、骨格が軟骨であるため、何千年の風化に耐えず消失しやすいためである。それだけ、サメの遺物から得られる情報が少ないことをことわっておきたい。 まずは、サメ遺物出土状況を東日本と西日本および西南諸島に分けて概観しよう。東日本では以下のとおり。

  1. 福島県寺脇貝塚(縄文時代後・晩期)
    A区より魚類遺物中マダイが約50パ-セント、サメ類約20パ-セント、マグロ類約10パ-セントの比率で出土している。磐城海岸の沖合はネズミザメやヨシキリザメの多いところである(1)。
  2. 静岡県登呂遺跡(弥生時代)
    外洋性の大型のサメでアオザメやネズミザメなどと、沿岸底棲の小型のサメでシロザメやホシザメなど、比較的多く検出された(2)。
  3. 石川県堀松、上山田、高波の三貝塚(年代不明)
    アオザメやイタチザメなどの歯が出土した(2)。
    西日本では、福岡県宗像郡周辺と長崎県五島列島、対馬および熊本県天草を中心に九州から西南諸島にかけ多数の貝塚・遺跡からサメ遺物が出土している(表1)。

これらの貝塚からは、ふつうにサメの歯や脊椎骨が出土する自然遺物とは別に、サメの歯を耳飾りにしたものや、歯の歯根部を簡単に研磨して棍棒にとりつけ鏃(やじり)やナイフにするための加工をほどこしたものなど、サメ歯加工品と呼ぶべき遺物も多数検出されている。これについては、各貝塚の出土状況も含め、三島格「九州及び南島出土の鮫歯製垂飾について」(1980年)に詳しいので参考にしてもらいたい。サメ遺物(3)は、日本全般に、福岡県天神山貝塚など数例を除き、縄文時代後期・晩期かそれ以降の貝塚・遺跡から出土している。

2-2. 西北九州型結合釣針

これと呼応して、縄文後・晩期の貝塚等から、寺脇型、大洞型、西北九州型などの巨木な結合釣針が出土している。
以下、渡辺誠『縄文時代の漁業』(1)からみてゆこう。
福島県寺脇貝塚から出土した寺脇型結合釣針は、縄文晩期に属し、大きさ(軸の長さ、以下軸長)が5~8センチの大型、極大形の釣針である(同貝塚A区より多数のサメ遺物が検出されている。樽本注)。
三陸海岸大船渡の大洞貝塚から大洞型結合釣針が発見され、これは晩期に属していて、軸長9~15.9センチの極大型のものばかりである。同貝塚からおびただしい量のマグロ遺物が出土し、マグロ漁に使用された可能性が強い。
西北九州型結合釣針は、「長崎県を中心に福岡・熊本県等西北九州に分布する」もので縄文後期に属し、軸長13.3センチ(熊本県浜ノ州貝塚出土)の極大型釣針である。この結合釣針は、釣針のかえしの部分(「さき」)とそれ以外の部分(「軸」)とに分かれ、軸は鹿角製、さきは猪牙製である(1)。
この結合釣針よりひとまわり大きく、軸が木製ではあるが、西北九州結合釣針とそっくりの結合釣針が、ハワイで出土している。ハワイのものは、サメ釣用だったようでシャ-クフック(Shark hook)と呼ばれている(4)。ところで、ハワイをはじめポリネシアの釣針類が、「日本の後・晩期縄文文化期の釣針にたいへんよく似ている」と直良信夫氏は指摘している(5)。

西北九州型結合釣針

渡辺誠氏は、先の書物で、西北九州型結合釣針を、東北・関東の釣針とは「別 個の漁業文化伝統に含まれる公算が大きい」、「したがって西北九州型結合釣針の出現の契機は、東日本からの影響とみることができず、他の文化要素との関係から朝鮮半島との関係が注意されるのである」と述べ、また、「西北九州型結合釣針も大きさからみてマグロ漁業が予測されるのであるが、自然遺物に関する詳しい資料がなく、今後の課題として残される(1)」と記している。
そこで、サメ遺物と西北九州型結合釣針の出土分布をプロットしてみると、両者は重複あるいは接近することがわかる。

(イ)熊本県沖ノ原貝塚からこの結合釣針の「さき」が発見されており、それに伴ってイタチザメやアオザメの歯の加工品が発見されている。
(ロ)五島列島宮下貝塚では、この釣針とアオザメの歯の加工品が出土している。
(ハ)対馬・志多留貝塚では、この釣針とサメ自然遺物やサメ歯加工品が出土し、加工材料の歯はひとつはアオザメ、もうひとつはメジロザメの仲間かシュモクザメのものと察せられる。
(ニ)サメ遺物と西北九州型結合釣針の出土が接近するところとしては、熊本県三角町浜ノ州貝塚で同釣針、大戸瀬戸の海峡をはさんだ松島町前島貝塚でサメ遺物が発見されている。

この他、下関市の貝塚でこの釣針の破片が出土し(2)、福岡市桑原飛櫛貝塚で 同釣針が出土。この二貝塚の中間の福岡県芦屋町山鹿貝塚・玄海町鐘ケ崎貝塚・鞍手町新延貝塚・玄海町浜宮貝塚・宗像郡沖ノ島社務所前貝塚の五か所からサメの自然遺物とサメの歯でつくった耳飾が出土している。

表1:九州および西南諸島のサメ遺物出土一覧表

以上両者の関係から西北九州型結合釣針は、外洋性の大型のサメを釣っていた可能性が大きいと結論づけられよう。

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