サメと働く現場より
3. 日本の「サメ食文化」の系統
日本の「サメ食文化」にはいくつかの系統があるように私は考えています。
サメ食を貴ぶ文化
ハレの日に食べる風習が日本各地にあること、伊勢神宮の「神饌(神様へのお供え)」がサメであることから(「鮫(矢野憲一著)」、もともとサメ肉を貴ぶ文化があったと推測します。樽本龍三郎先生の研究に、「サメ」はもともと「サバ」と発音しており、「イサバ」「イソベ」は「魚」全般を指すというよりも「サメ」を意味していたというものがあります(「伝承からみた日本のサメ崇拝文化」)。樽本先生の説では、古代の日本人は大型のサメを「サバ」と呼んでいたということです。九州、三重、和歌山における利用は、その宗教的な流れではないでしょうか。
商売面①~行政の産業振興
青森県のモウカザメ利用は江戸時代天保14年(1843年)に下前(したまえ)の漁師加藤音吉氏がこれを大量に漁獲したことから始まりました。肝油を絞り、肉は弘前に販売したといいます。はじめは濃い味なのでなかなか受け入れられなかったようですが、豆腐と混ぜて擦って使用したりと食べ方に工夫をこらすことによって徐々に食べられるようになっていったようです。弘化の末(1847年)に広く利用されていったことが、「弘藩明治一統誌月雑報摘要抄」という文献にあると「みちのく食物誌(木村守克著)」に書かれています。広島県三次のサメ肉利用も、明治政府の産業振興策の一つとしてサメ漁が奨励されたことから始まったと聞いております。
商売面②~貴重な高級魚の代替品
太平洋側ではお正月にナメタガレイ(ババガレイ)を煮つけてよく食べます。2000年以前はこの魚は高級魚でありましたが今では安く出回っております。アブラツノザメの煮つけは、ナメタガレイ(ババガレイ)の煮つけに非常によく味が似ており、その代用品として利用されたのではないかという推測をしています。もともと宮城県石巻ではアブラツノザメを使った「ボタン竹輪」を開発しており、練り製品だけでなく魚自体の利用もされていたと考えられるからです。宮城県ではアブラツノザメを使った「焼ざめ」食文化もあります。
食糧難時の非常食利用から一般利用へ
これは最近聞いた話ですが、江戸時代天明の大飢饉の際に、従来俵ものとしてフカヒレだけ利用されていたサメ肉を食用に転用すべしという幕府の政策によって広く食べられるようになったという説です。新潟県上越地方のサメ食文化研究で発見された文献からわかったそうです(サメ食研究家井部真理氏の話)。また、戦後の食糧難時にたんぱく源の供給策として腐りにくい魚として普及したようです。一方で、冷却不十分等の不適切な扱いによってアンモニア臭を発するサメ肉が多くでまわり、消費者に嫌われる要因を作ったともされています。戦後の世情混乱の記憶とアンモニア臭のするサメ肉という記憶が当時の人々の心に刻まれ、サメはまずいし、いやだという印象を作ってしまったのかもしれません。
4. 青森県のサメ漁
青森県では、古くは縄文時代から現代に至るまでサメ肉を普通に食べてきました。青森県には、サメを専門に漁獲する漁業者がいます。これがこのサメ食文化を支えてきたといえます。安定品質のものを安定的に供給してくれる漁業者がいるから、我々のような加工流通業者が安心して仕事をすることができるのです。そして、安定的に手軽に食べられるようにフィレやドレスに加工された製品が店頭に並ぶことによって、消費者は普通に食することができます。
アブラツノザメの漁獲量は、1950年代に1万トン近くまでありましたが、その後2014年頃には1500トン、ここ数年は600トンくらいにまで減少しています。弊社も年間600トンほど扱っておりましたが、ここ数年は300トンくらいです。漁業者や需要の減少に加え、漁獲の不安定さを背景に、同業者はどんどん減っていき、今ではサメ専門業者は青森で数えるほどしかなくなってしまいました。