伝承からみた日本のサメ崇拝文化

7. サメ崇拝とサメ除けの知恵
改めて「イソベサマ」の信仰をみてみよう。
ゴサイの日は、海女は漁を休み磯部神社に参詣し厄除の御札をもらう。これをもっていれば海難やサメの害からのがれられると信じられてきた。また能登では、舟が漂流していたら、そのまわりにフカが近づいてきて陸まで導いてくれたといい、そのフカを「イソベ様」と称したことが「加能漂流譚(20)」にみえる。さらに、「海豚(イルカー樽本注)のイソベ詣り」の伝承が伊豆大島にあり、イルカは旧二月にイソベ様に詣るといわれ、海でイルカに追いかけられたら「俺はイソベサマのオマモリを持っている」といえば助かる(21)、と伝えられてきたという。
このように、イソベ信仰は漁の安全や航海を守護してくれる海の守り神として語られ、オセアニアなどにみられるサメの神と同じ性格づけがなされている。
オセアニアの漁撈民のサメ崇拝をみると、サメは彼らの祖先や海で死んだ兄弟や勇者の生まれかわりであると信じられ、その祖先や兄弟の霊の乗りうつったサメは良いサメで豊漁をもたらしたり海難から彼らを守ってくれるが、そうではないのは人を襲う悪いサメであると信じられてきた。
こうして、サメを守護神とみたてることで彼ら漁撈民は、サメに対する恐怖心を克服し、サメと共存する方法を見出したのであろう。
漁撈民のなかでも特に潜水漁民は、サメと遭遇する機会が多く、サメに襲われる可能性も大きい。しかし、サメを恐れていては生活できないので、その恐怖を昇華させなくてはならない。そこにサメの神格化が生まれたにちがいない。
神格化にともないサメにまつわる口伝も生まれ、口伝を通して、サメとのつきあい方も伝授されてきたであろう。
現実にサメを守護神や祖先・兄弟の霊の生まれかわりと信じることで、サメの攻撃から身を守ることができた。つまり、サメと遭遇してもパニックに陥らずにすむからである。海中で人が暴れるとサメの攻撃を誘発することは科学的にも証明されており、そうでなくとも海の中でパニックに陥れば、それだけで溺れ死ぬことにもなる。こうしてサメの信仰が漁撈民の深層心理に働きかけ、彼らをサメの攻撃から守ってきたと思われる。
これとは別に、もっと現実的なサメ除けの方法が次の伝承の中で語られている。沖縄県八重山諸島のひとつ黒島に伝わってきた、多良問屋真牛(たらまやもうし)の伝承である。
一八四三年(道光二十三年)一月二十五日黒島仲本村の真牛(もうし)は、稲の植付のため西表島古見に一人刳(くり)舟で渡ろうとした。当時、租税米をつくろうにも隆起サンゴでできた黒島では稲作はできず、豊富な水と土のある西表島(いりおもて)で稲作していた。そのため村人が交替で西表島に渡っていたのである。
真牛は松を刳り抜いた舟に、ナーブク(長箱)をのせ一人西表に向う途中、六つころ海が荒れだし舟が転覆してしまった。ナーブクにつかまって漂流している真牛のところに、枝も根もついた一本の大木が流れてきたので、真牛はナーブクをその木にのせ、自らもそれに乗って南へ流されていった。二十六日には波照間(はてるま)島と新城(あらぐすく)島の間を抜け、二十七日はさらに南化しある無人島に流れついた。無人島には幸い小さな川があり、ナーブクの中には生活用具が入っていたので、真牛はそこでの生活にこまることもなく半年がすぎた。そんなある夜、真牛の夢枕に神が立ち、お前を海の動物に乗せ黒島へ帰してやろうといわれた。
旧六月二十六日の夜、いつものようにタイマツを燃やして干礁を魚突きをしながら歩いていた。突いた魚を腰に結んだ縄の片はしに結び、それを数メートル後方に流して歩いていたら、何やら大きな魚に穫物の魚をとられてしまった。しかし真牛はそれを気にもかけず、さらに進んでいき深みにはまってしまった。そこに黄鯖(キサバ-サメの一種)が真牛をのせ、黒島めざして泳ぎ出した。翌二十七日の九つころ黒島のアキナエキ礁というところの外側百尋(ひろ)ほどのところについた。そこで黄鯖が沈み、そこから真牛は干礁まで泳ぎついた。沖をみると黄鯖が頭を出していたので、真牛は両手を合せて拝むと黄鯖は東へ去っていった。
真牛失踪中、黒島では真牛を捜索したがみつからず島では真牛は他界したものと想い、葬儀をすませた。
旧六月二十七日、同島の小底屋むけし、宮里屋にけや、川西かんたの三人が漁に出ていたら、なにやら呼ぶ声がするのでみてみると、沖合二、三尋のところを泳いでいる人がいる。その男の姿が真牛に似ているので死霊だとおもい、三人は立ち去ろうとした。なおも呼ぶので近づくと、ヒゲをボウボウにはやし、服はボロボロでまるでみずぼらしい老人の姿の真牛であった。
(1979年、樽本採集)
この話は沖縄の神話「球陽」にものっているが、私が真牛の子孫の多良間嘉奈氏から直接うかがった話として右に長々と紹介した。それは文献ではわからない細部が知りたかったからである。
真牛は、魚を突いて干礁を歩く際、捕った魚を自分の体につけずに、魚を縄に結え後に流し、体から離していたことがわかる。
こうすれば、サメが嗅いに誘われてやってきても、その魚だけを食わえて泳ぎ去るので真牛に危険がおよばない、と同氏は語った。これが、サメ除けの方法だったのである。この方法は当時黒島で一般的な漁法であったにちがいない。
(樽本撮影)
もう一例実際にサメに襲われた土佐清水市三崎浦の中川光明氏の体験談を紹介しよう。
昭和二十五年七月一日のできごとである。その頃中川氏は土佐清水市小才町で潜水漁師をしていた。この日村に役場の所長がみえるというので、仲間三人と接待用の魚を突きに出かけていた。梅雨あけの晴天の日で海は濁っていた。岸から四〇〇メートル程沖合で仲間の一人がバンドウ(アオブダイ)の二貫(8キログラム)くらいのを突いたので、中川氏が岸へ持ってかえることになった。岸では所長が三人の様子をみていた。この海域はフカが多く、普段なら腰のフンドシをはずし、その一方に魚を結え、反対側を体に結えて、魚を自分の体から離して曳いて泳ぐのだが、この日ばかりは所長がみているのでそうもいかず、中川氏は魚を抱いて泳いでいた。そんなふうに魚を曳いて泳ぐのは、フカに喰われないための用心である。しかし、ここの漁師はフカは人を襲わないと昔から言い伝えられていて、中川氏も義父からそう教えられていた。
魚を突いたところは浅瀬で、浅瀬と岸との間は深みになっていた。この深みを魚を抱いて泳いでいたのだが、中川氏の足の先に何やら触れた。それが二度、三度かさなったので、ここは深みで藻に触れることもないだろうと思いつつも、さして気にもせず泳いでいると、突然波にのまれたように海中にひきずりこまれた。二、三回転して海底についたので、こんなこともめずらしいことではないから、海底をけって水面に出た。そこで中川氏は、さっきまで抱いていた魚を離してしまったのに気づき、波にもまれて落したのだろうと思い、魚を探そうと泳ぎだした。その時はじめて右腕が付根から肉がなく、白骨が露出しているのに気づいた。この時まで中川氏は自分がフカに襲われたのに全く気づいていなかった。
(1974年、樽本採集)
この事例が明らかに示すように、漁師が腰に結えた縄やフンドシを利用し、獲物の魚を自分の体から離しておくことで、サメの攻撃から身を守ってきた風習がある。これが、俗に六尺フンドシや赤フン(赤揮)がサメ除けになるといわれてきた由縁であろう。
私たちは、古い伝承や習慣、またいわゆる未開民族と呼ばれてきた人達の言動や習慣を見て、「合理的解釈」に苦しむと、それらを神話世界の言葉や行ないとして片付けてしまう傾向が強い。
しかし、サメの伝承をみた限り、これまで言われてきた解釈から離れると、サメを捕ろうとすれば逆に命を落とすといったサメとのつき合い方が語られ、サメが自分たちの浜にやってくる時期が知らされ、さらに、自分たちの捕った獲物をいつも体から離しておくとサメの攻撃から身を守れることを教えられる。
昔の大阪商人が落語を通して、商人の習慣や言葉のやりとりを学んできたように、古代の人達や未開地の人達も口伝から多くを学んだことだろう。そして、サメを信仰することで、漁撈民が自ら悟ることもなくサメの攻撃から身を守ってきたのであれば、そこに近代科学以前の大きな知恵が働いていたことを私たちはうかがい知ることができる。この知恵を、漁撈民は多くの犠牲の代償として獲得してきたであろう。昨今、自然との共存が叫ばれるが、漁撈民がサメと共存してきた過程をみるかぎり、辛苦の道と覚悟しなければならない。
8. サメ崇拝文化の伝播に関する二つの問題
これまで、サメの信仰を通し、サメと漁撈民(とくに潜水漁撈民)の関わり方を論じてきたが、そのなかで「イソベサマ」にみるサメ崇拝が、熱帯・亜熱帯の海域に広く分布すると述べた。
しかし、サメ崇拝文化が一元発生したものか、サメの多いところで多元発生したものか、議論の分かれるところである。そこで、これに関して二つの問題を提示したい。
ひとつは、サメわな漁とよばれるオセアニア特有のサメ漁が日本に存在したこと。もうひとつは、サメ崇拝文化と関連して、サメを食べてはならないとする「サメ食禁忌」とサメを好んで食べる「サメ食嗜好」の習慣があること、この二つを検討しよう。
オセアニアには、網や釣針を使わず、基本的には縄一本で大きなサメをとるサメわな漁という漁法があり、それは大きく二つの形態に分れる。
そのひとつは、漁師が海底の穴にねむっているサメの尾のつけ根に、潜って行って、輪にしたロープをかけ、そのロープをひっぱってサメをつかまえる、ごく単純な漁法で、仮に「原初的サメわな漁」と呼んでおこう。
この漁法は、ウヴェア、トンガ、トンガレヴァ、アイツタキ、ハワイ、ツアモツなどのポリネシアの島々と日本のトカラ列島、宝島に「サバククリ」と呼ばれ存在した(22)。
もうひとつは、西はカロリン諸島から東はツアモツ諸島に至るオセアニアでよくみかける一般的なサメわな漁である。これは、数人が舟にのり、一人が、ガラガラと呼ばれ、藤の輪や棒にココヤシや貝殻に穴をあけて通した道具を水中で振り、音でサメをよせてくる。もう一人は、大きな輪にしたロープをもって舷側水面下で待ちかまえておく。そして、また別の人が、餌を使ってサメがその輪をくぐろうとするように操り、サメがロープの輪に頭を突っこんだところで、ロープを引っぱりサメをしばって捕獲する、というものである。
(国立民族学博物館に展示〃樽本撮影)
この漁法が日本に分布していたという報告は、私の知る限りない。しかし、ここに明治時代、瀬戸内海西部・周防大島のとなりの小島、沖家室(おきかむろ)島と熊本県天草に存在していた(23)ことを示す資料がある。そのひとつは昭和十六年発行の村田看雨居士の手による「鰻(ふか)」という小冊子で、発行所などは不明である。
明治十八年(1885)、筆者が少年時代に、彼の父と従兄と三人で沖へ釣りに出かけたときの思い出話として語っている。
父は従兄に鱶が舟近く現われた時は、かくせよと、取舵面舵舟の操縦方を委しく教てから、海老縄(略)を取り出し、その一端を舟首の船梁に結付け、他の一端は三尺位の輪になし、引結(ひきむすび)に結んで私に持たした。それから父は、生間(いけま)(略)から一尾の鰺を取り出し、それを釣糸で結び、立上って遠く海中に投入れては手繰(たぐり)上げること数回に及ぶと五六間前の海面に一尾の大鱶が現われた。(中略)父は早速私が持っている海老縄の輪を左舷の海中に垂れしめて曰く「これから鱶をおびきて其の輪に入らすから、すぐ両手で力一ぱい引締めよ、引締たれば速ぐ手を放せ、それでないと海中に引ずり込まれるぞ」と厳命した。
実際にサメを捕らえるまでを、著者はドラマチックに語り、「家室ではつまらん、今でも鰭は地蔵様の御使と云ふて、畏しかつてゐる老人もゐるから、地方(周防大島・樽本注)へ持って行く方がよかろう」と、彼の父親が言ったことも記している。このサメ漁は、ガラガラこそ使われていないが、明らかにサメわな漁である。
藪内芳彦氏は、サメわな漁は「じつに奇妙なやり方の連続した漁法でして、こんなのはどうしても多元的発生したとは思えません」といい、一元発生の立場からサメわな漁の漁具・漁法のバラエティをオセアニアにおける漁民移動の指標と考えているようである(22)。
そうであれば、沖家室島や天草のサメわな漁(23)もどこかから伝播してきたものだろうし、また、単純きわまりないが、宝島の「原初的サメわな漁」もそうであろう。宝島のそれだけが独自で発生したとは考えにくい。そして、この沖家室島では、サメが地蔵様の化身と信じられていたし、「鱶地蔵」の伝承ものこっていた。また鱶地蔵の祭りもあったというからサメ崇拝文化があったことがわかる。
「鱶地蔵」の伝承は、前に紹介した八重山諸島黒島の多良間屋真牛とほとんど同じ話で、沖の干潟にとりのこされた男(あるいは娘)がサメの背にのって浜に戻ってきた話である。そこで、沖家室島と多良間家では、どちらもサメを守護神とあがめ、絶対にこれを食べることがない。つまり「サメ食禁忌」の風習がある。
ところが、沖家室島からみて本島の周防大島では、よろこんでサメを食べるらしく、村田親子が、周防の浜に捕ったサメを水揚げしたところ、村人たちが集まりサメを解体し、その肉を求めて人々が集まってきて、「一時この白浜に市をなした」という。
秋道智彌氏は、ソロモン諸島マライタ島にすむラウ族を調査し報告している。
彼らの大部分はマライタ島の環礁に人工島をつくり、そこに住んで漁を行っているが、彼らはサメを自分たちの祖先と信じており、サメを食べることができない(24)。にもかかわらずラウ族は、ココヤシの殻でつくったガラガラを利用したサメ漁を行う。同氏から聞いた話では、捕獲したサメはマライタの農耕民との交易に利用するという。
さらに、野口武徳氏は、フィリピン・パラワン島の事例として、自らは食べないのにサメを捕っていた漁師の話を紹介し次のように言っている。
そこのマーケットには、「漁民・農民そして山地民が集まって来て交易を行うんです。そのサメとかエイというのは重要な交易品として生きる。すなわち海岸のイスラム教徒たちは食べないけれども、山地民はむしろ好んでそういう(略)魚を食べるということが」自ら食べないのにサメを捕ってくる大きな理由だろうと(25)。
ここに、沖家室島とマライタ島ラウ族の間にサメ崇拝、サメ漁、「サメ食禁忌」、サメの交易(消費流通)に共通性がみられる。オセアニアなどのサメ漁やサメ崇拝に関して、私は詳しくないが、もっと調べるとこうした例はいくつも見出せるのではないだろうか。
ニューギニア・イリアンジャワでは、豊漁をサメに祈り、ガラガラをつかってサメをおびき寄せ、鈷(もり)で突いてとる。その漁獲物の分配は、頭や尾と内臓は自分たちで食べ、骨のまわりの身は身内に分配し、皮のついた肉は他人に売っていた(1980年、「驚異の世界」読売テレビ)。
本来は、サメ漁の漁獲物は自らも消費したはずで、日本のサメ漁師がサメの肉は食べないのに、心臓や腸などを生食するのは、イリアンジャワのサメの分配にみるような、大昔のころのサメ漁のなごりかもしれない。
オセアニアのサメ崇拝とサメ漁および「サメ食禁忌」や「サメ食嗜好」の関係性をみる場合、部族によっては、信仰上サメに食用と非食用の区別があることを念頭に置く必要があるだろう。
サメの漁撈と消費流通のこうした習俗を、日本のサメ漁業でみると、私の知る限り、外洋性の大きなサメをとるサメ漁に関しては、その漁民とサメ漁のある浜は、サメの内臓(腸や心臓)を食べても、肉(胴体)は食べない。胴体は近隣農村や遠隔地の山村に出荷する。その消費地では、サメを刺身で食べることも多く、「ハレ」の魚として特によろこぶ習慣があり、地域として限られている。ただし、ホシザメやネコザメ、アブラツノザメなど小型のサメに関しては、浜の人達もよろこんでたべる。
最もよい例をあげよう。島根県五十猛はかつてサメ漁の盛んなところであったが、ここでは、大きなサメを捕っても、その腸は好んで食べるが、胴体はたべることがなく、これは浜の海産物商が、広島の山間地である三次(みよし)に運んで売る。三次とその近郊農山村では、サメは祭に欠くことのできない魚で、「三次カジキ」などといい、刺身で食べる。三次の市場では、時にサメに御祝儀値といって、特別に高い価格がつけられることもめずらしくない。
この五十猛ではかつてアブラツノザメも漁獲していたが、小型のこのサメは、浜でもよろこんで食べた。またサメ崇拝の具体的事例はないが、漁を開始するときの大漁祈願の言葉の中で、サメを「リュウゴンサー」(龍宮様)と呼んでおり、サメを守護神とみる観念があったことが察知できる。
サメわな漁がトカラ列島宝島や周防大島の沖家室島・熊本県天草に伝播してきたのであれば、それとセットしたかたちで、サメ崇拝文化(サメの伝承や信仰など)やサメの消費流通の風習も一緒に入ってきたことは十分考えられる。マライタ島ラウ族と沖家室島の漁民の間に、先述のとおり驚くほど似かよったサメに関する風習がみられるのはそうした背景によるものだろう。
そうすると、サメ崇拝の分布とサメわな漁の分布などからみて、サメ崇拝とサメの漁撈およびサメの消費流通などがひとつになったサメ文化とでも呼ぶべき海洋文化が、オセアニアから日本にかけて存在したかもしれない。が、日本には「イソベ海人」など潜水漁民とサメ漁とをつなぐ史料がほとんどない。ただ一例、江戸時代の記録に、鮫追船というサメ退治のための漁船があり、これに「かつき衆」(海士)が従事していたことがみえるのみである(26)。
最後に、「サメ食嗜好」と関連して古代磯部とサメの干肉の関係について、ひとつの推論を述べよう。伊勢地方で「タレ」、高知市などで「鉄干し」と呼ばれる、板状のサメの塩干し(ミリン干しもある)がある。これはウバザメの肉を最高とし、その他シュモクザメ、アオザメ、メジロザメ科の大型のサメの肉を厚さ一・五センチ、長さ三〇×幅二〇センチに切り、塩づけ乾燥させたものである。
この干物が、伊勢神宮の祭典に神饌として古来供されてきた。伊勢神宮の儀礼・祭典などは千年以上に渡り、寸分違わず伝えられてきたという。それなら、古代・中世にサメ干肉がこの地方で特別重要な食品であったかもしれない。その意味からか、矢野憲一氏は自らの著書の中で、伊勢神宮におけるサメ神饌の重要性を説きながら、サメが神饌に使われた記録が「延喜式」などにみえないとして「雑膳魚」の中に含まれていただろうと推測されている(27)。そこで、五章で述べたとおりサメの古語が「サバ」であったとの見地から、『本朝食鑑』の「鯖」をひらくと「昔はこれを神祇の供としていたことが、『延喜式』に記載されている(28)」とある。そこで、伊勢神宮の神饌を目録で調べると、そこには今日いうサバはない。したがって、「鯖」(佐波)の名で、サメの干肉が神祗に使われていたと思われる。矢野氏は、サメの固有名詞も時代変化することを見落されたのかもしれない。「他にサメを神饒とする神社は、千葉県佐原市の香取神社と愛知県の津島神社に今もあり、昔は熱田神宮その他にもあったと古記録に見える(28)」という。
六章で伊勢神宮と磯部氏の密接な関係をみたが、津島神社のある尾張の海部に、磯部人足と磯部大国が、香取神社の所在地とはわずか離れるが、下総に磯部刀良売ら二人が住んでいたことが前号表二の磯部氏の分布からわかる。また香取神社の近くに磯部氏の地名と、サメではないがサケの宮参りの伝承がある。
「イソベ海人」がサメ漁を営んでいたとする直接的史料はないが、志摩沿岸には古くよりサメの延縄漁(はえなわりょう)やウバザメの突棒漁(つきんぼうりよう)がある。そして、古代磯部と伊雑宮や伊勢神宮の密接な関係などからみて、サメの神饌と「イソベ海人」の間に、見えざる糸があるように思われる。