伝承からみた日本のサメ崇拝文化

5. イソベ・イサバはサメの古語
イソベサマを、神社の縁起でみると、伊雑宮(イサハノミヤ)の祭神で、伊佐波登美神(イサバトミノカミ)とある。そこで、このイサバが何であるかが次の論点となる。私は、イサバはサメの古語ではなかったと考えている。
沖縄地方でサメをサバと呼ぶ他、九州福岡地方や瀬戸内海西部地方でドチザメをイサバと呼び、岡山県下津井ではフカをイサベと呼んでいた。(9)
「サバ」の古語を、『和名類聚抄』(以後『和名抄』と略す、936年)でみると、以下の三種の「サバ」がみえる。
イ、「鯖(中略)音は青、和名阿乎佐波(中略)口は尖り背の蒼い者なり」
ロ、「(中略)音は番」・漢語抄に云う加世佐波、鼻の前に竹斤斧(たけおの)の如き横骨の在る魚なり」
ハ、「鯆魚(中略)音は甫、辮色立成に云う奈波佐波、大魚名なり(10)」
この他の古文献でも「鯖」。「佐波」はいずれも大魚である。
イの「鯖」は「青魚」とかいても同義で、「アオウオ」とも訓める。アオウオという名の魚は実在し、一メートル余りのコイ科の大魚であることから「鯖」をこのアオウオとする説もある。しかし「アオサバ」は前の記述で背の青い吻(ふん)の尖った魚であり、アオウオは背が黒い。これをアオザメかヨシキリザメ(英名 Blue Shark)におきかえると、この二種のサメの背面はみごとに青く、吻尖は円錐状か先の尖った細長いショベル状である。
『広異記』にも「青魚一文(三メートル前後)」とあり、この二種のサメとも三~四メートル前後の大魚である。少なくとも今日いうサバは体長四十~五十センチメートルで大魚とはいいがたい。
ロの「カセサバ」は、近世の『箋注倭名類聚抄』に「カセウオ」ないし「カセブカ」のことと注釈されている。カセブカというのはシュモクザメ(英名Hummer head Shark)で、今日の漁師やフカヒレ業者はこのサメを「カセ」、「カセブカ」、「カセワニ」と呼ぶのがむしろ一般的である。このシュモクザメも四~五メートルにもなる大魚で、頭がT字型をしており、「鼻の前に……横骨のある魚」との記述と矛盾しない。
ハの「ナワサバ」については鯆魚とありこれを古語におきかえれば「フカ」と読めなくはない。このナワサバはこれまで国語学者の頭痛の種であったが、イタチザメ(英名 Tiger Shark)と考えれば、五メートル以上になる大魚で、体に縄状紋様がある。
以上、『和名抄』にみる「アオサバ」、「カセサバ」、「ナワサバ」は、それぞれアオザメもしくはヨシキリザメ、シュモクザメ、イタチザメに置きかえてみると、同書の記載とみごとに一致する。これで、サメの仲間でもとくに大型のサメを古代日本で「サバ」と呼んでいたことが察知できる。
下、アオザメ幼魚
ついで、「サバ」がいかに「サメ」に転訛したのかをみることにしよう。日本語の成立過程で古代中国の呉の音と漢の音の影響が強かったといわれている。
この表でみると佐波(婆)は、呉音ではサバ、漢音ではサハとなる。中華料理で珍重されるフカヒレは、中国江南の寧波(ニンポー)で「娑婆」と呼ばれていたことが『日本水産図説』(12)にみえ、中国語の発音はわからないが、日本語で訓むとサバかサハとなり、「娑婆」(沙波、佐波と同じ)は、中国の寧波でもサメをさしていたことがわかる。
このサバ・サハがサビ・サミへ、さらにサベ・サメへと転訛したと推測される。
古い地名で、サバ・サハとサマ、サビ・サミ、サベ・サメのつくものを調べると、サバ・サハないしサマのつく地名は、今の山口県佐波郡に、沙磨(サマ)(景行紀)、沙麼(サマ)(仲哀紀)、佐婆(サバ)(豊後国風土記)がみえる。ついで、島根県大田市に佐波(サマ)(和名抄)、佐婆(サバ)(延喜式・万葉集_)がみえ、静岡県田方郡(伊豆半島)に佐婆(サバ)(和名抄)が記録されている。
サビ・サミのつく地名は、奈良県田原本町に佐摩(サミ)(神功紀)、大阪府南河内に佐備(サビ)(和名抄)、石川県小松市に佐見(サミ)(源平盛衰記)、三重県伊勢市に去夾見(イサミ)(万葉集)、群馬県藤岡市に佐味(サミ)(和名抄)、新潟県柿崎町に佐味(サミ)(和名抄)などがみえる。
サメのつく地名で古いものは、滋賀県米原町の醒井(サメガイ)が居醒(イサメ)の泉として古事記にみえ、察するに、サメに接頭語のイが付きイサメとなり、イサメ転じてサメガイになったのだろう。他には静岡県富士市に鮫島(吾妻鏡)がみえ、滋賀、福島、宮城、青森の各県と、北海道に散在するサメのつく地名はいずれも江戸時代以降につけられた地名である。
サバ・サハのつく地名は静岡県の佐波を除けば山口と島根の両県で、サミは近畿および中部日本海側、サメは東海以北の太平洋側に多い。年代でいうと、各地で活躍した氏族の年代から、サバ・サハとサミ・サビは七~八世紀、サメについては、醒井を除きすべて十二世紀以降につけられた地名と考えられる。
サバ・サハからサミ・サビ、そしてサメ・サベへ転訛したのであれば、サベについてもサメとの結びつきがなければならない。そこで、「日本魚名集覧」(13)に紀州太地周辺で、ネコザメをネコサベ、ツノザメをハリサベと呼んでいたことがみえる。しかも太地の近くに、佐部(サベ)の地名がある。また兵庫県加古川市の砂部(イサベ)では、発掘調査で礒部(イソベ)と呼ばれる部民が住んでいたことがわかったと石見完次氏はいう(14)。
以上、サメという語彙は、地名や人名からみる限り新しく、それ以前は、「サバ」や「サハ」がサメを意味する語彙であったと考えられる。磯部(古くは伊佐波(イサハ)にある伊佐波宮(イサハノミヤ)に祭られている伊佐波登美神(イサバトミノカミ)、このイサハ・イサバは、したがって、サメの古語の「サハ」・「サバ」に接頭語のイを冠したもので、イソベについても、イサベやイサバから転訛した語彙で、いずれもサメを意味していたにちがいない(15)。
6. 磯部氏について
伊雑宮(イサハノミヤ)は、『延喜式神名帳』に記録のある古社であることは先述した。この宮の長官は江戸時代に、中(なか)と世古(せこ)の両家であったが、さらに古くはこの両家は磯部と名のっていた(16)。
もともと、磯部と呼ばれる漁撈民がこの神社をたて、サメである伊佐波登美(イサバトミ)を神とあがめていたのであればそれも当然だろう。
この伊雑宮は現在伊勢神宮の別宮とされているが、実は伊雑宮こそ伊勢神宮の本宮であるとして、寛永二年(1625)から半世紀余りも、伊勢神宮や時の政権と争い敗れた伊雑宮神官ら磯部住民の記録が『磯辺郷土史』で語られているという(17)。
そして、神崎勝氏は「天石窟伝承について」の論考で、「伊勢神宮を奉斎する祠官のなかでも、とくに中央祠官たる大中臣氏に結びついた荒木田神主を除けば、神宮祠官の大半が磯部氏によって独占されていた事実もみのがしてはなるまい」と述べ、「つまるところこの南伊勢の地は、日本海沿岸から近江・伊賀の各地にその勢力を扶植した阿部同租集団の、太平洋岸における最大の拠点であったのである」と展開し、「南伊勢を拠点とする海人集団=磯部を介在させるならば、畿内と東国とを結ぶ道が改めて重視されてくるのだろう」と結論づけている(18)。
そこで『日本古代の地名の謎』で古代のイソベの地名をみてみると、『和名抄』に記されている国郡は以下のとおりである。
三河国渥美郡
美濃国席田郡
信濃国埴科郡
上野国碓氷郡
越前国坂井郡
また同書で、本間信次氏は現存する磯部の地名から、「磯部は隠岐・但馬を西限とし、近畿から中部地方の内陸部、越後・上野・下総に進出したらしい。(19)」と述べている。これは神崎勝氏による「磯部の分布」(表1・2)からも裏づけられ、年代は八~九世紀ごろである。
こうした勢力拡大の背景に、当時の政権との結びつきがあると思われる。しかし、本稿は古代磯部氏の勢力拡大や政治闘争を論じているわけではなく、これを目安に「イソベ海人」の分布をさぐろうとした。もうひとつ、伊勢神宮や千葉県(下総)の香取神宮のサメの神饌を後述するためにも必要だったからである。
磯部氏族の分布と「イソベ海人」の分布は文献記録のあり方の問題で必ずしも一致しないが、このように「イソベ海人」が志摩地方のみならず古くより広範に拡散していたのであれば、『風土記』の世田姫説話や『出雲国風土記』の猪麻呂伝承が、なんらかの形で七本鮫の昔話として、志摩の海女たちの間に語りつがれてきたのはうなずける。
そして、志摩の海女や漁民が「イソベサマ」として信仰したサメ崇拝が、インド洋からオセアニア、中米、カリブ海のサメ崇拝と共通するのであれば、イソベ信仰は南方型漁撈民の渡来と日本での拡散に関わってくる問題でもある。