論文 2022/11/21   2022/12/29    樽本 龍三郎

日本サメ漁業の歴史と伝統

3.「風土記」にみるサメの漁撈

サメ歯の耳飾やサメ自然遺物出土した福岡県の先の五貝塚は、宗像市ないし宗像郡・遠賀郡中心にあり、この地は宗像海人の本拠地としてよく知られたところである。
そのひとつ山鹿貝塚で、「二号成年女性人骨の左右外耳孔下発見。この耳飾は、二個のサメの歯を、それぞれ一側辺を研磨・対称形につくり、その研磨部を合わせて、一個の耳飾とする」。同じく鐘ケ崎貝塚でも、山鹿のような軌形式のサメ歯製垂飾(複式)の片方が発見された。通常サメ歯型垂飾は一個のサメの歯でつくられており、この複式はアオザメの歯を使い、山鹿や鐘ケ崎貝塚で独自のものらしい(3)。一方で、「山鹿の弁天さまの七月の祭りにも、二尾の白ブカが玄界灘から遠賀川の川口の鳥居の見える所まで毎年やってくる」との口伝がある。本誌五号「伝承からみた日本のサメ崇拝文化」で私は「イソベ海人」とサメの宮参りの伝承との関係について言及したが、この山鹿貝塚でサメ崇拝を想わせるサメの歯の垂飾が出土し、少し離れて福岡市桑原飛櫛貝塚でサメ釣用と思われる西北九州型結合釣針が発見され、いつごろ生まれた口伝か問題だが、山鹿にサメの宮参の伝承があるのは興味深い。また五島列島富江町宮下貝塚でも西北九州結合釣針とサメの歯の加工品(鏃用に加工したものだろう)が発見されたと前記した。
五島列島には、土蜘蛛大耳(つちぐもおおみみ)・垂耳(たりみみ)を長とする白水郎が住み「飽(あわび)・螺(たにし)・鯛(たひ)・鯖(さば)・雑(くさぐさ)の魚。海藻・海松・雑の海菜」を捕っていたことが『肥前国風土記』にみえる(7)。この「鯖」が本誌五号で私が論考したように、大型のサメなら、これを捕っていた記録は、五島列島でサメの遺物やサメ釣用の釣針が発見された事実と付合する。
ところで土蜘蛛と名乗っていた白水郎は、「容貌(かたち)隼人(はやと)に似て、恒(つね)に騎射(うまゆみ)を好み、其の言葉は俗人(くにひと)に異なり」と同書に記されているが、「異族としての土蜘蛛は、その分布習俗から考えると、九州沿岸地帯に生活していた漁撈民集団で、後の海士・海女にあたる(8)」と水野祐氏は説く。また、藪田嘉一郎氏によれば、「『白水郎』を私は折字と考える」といい、白水郎=泉郎で中国の古文献にみえる泉州あたりにいた海人と結びつけ、「泉州は福建省?侯県で隋唐に置かれた州であり、「『泉郎』はこの泉山地方に居た海人で、『泉先』『泉客』と(中略)『述異記』に言う。『述異記』によると、この泉先及至泉客は『鮫人』のことである。鮫人は『蚊人』とも書かれる。鮫蛟通用である」として、蛟人=泉郎が海蛇すなわち竜の分身をしていたことに由来する(9)と論考している。
そして倭の水人も、『魏志』倭人伝に「断レ髪文レ身、以避二鮫龍之害一今倭水人」とみえ、身体にイレズミを入れ、サメの害から身を守り、潜水して漁を行っていたらしく、彼らの風習は、泉郎=鮫人とよく似ていたとわかる。

さらに、対馬の志多留貝塚でも、サメの歯と西北九州型結合釣針の出土をみたが、その近くの佐賀貝塚からも、少しタイプの違う結合釣針や離頭式の回転鈷が出土し、永留久恵氏は次のように言っている。

佐賀貝塚では多くの骨角器を出土したが、それは鏃・鈷・?(やす)・釣針の類で、これは同時期の志多留貝塚でも同じである。材質は獣骨・鹿角・猪牙・鮫歯だが、このなかに結合釣針というのがある。これも長崎県の脇岬遺跡をはじめ西北九州の縄文遺跡でつとに知られていたが、韓国でも東三洞遺跡をはじめ上老大島など二、三の出土例があり、最も古い例として江原道鰲山里(おさんり)遺跡では、隆起文土器の出土層から石と骨角を組み合わせた古い型の結合式釣針が出土している(10)

また、佐賀貝塚からは鐘ヶ崎式土器も出土しているという。そこで、サメ遺物および西北九州型などの結合釣針の分布と古文献の記載、これまでの考古学の研究成果等を総合してみるとサメと関係の深い漁撈民が、対馬・五島列島・西北九州にかけて文化圏を築いていたと考えられる。しかもその漁撈民は、倭の水人と呼ばれた漁撈民で、福建省泉州あたりの泉先・泉客の系統の白水郎と呼ばれた漁撈民とも関運し、広くは中国広東から朝鮮、九州をも包括する環東シナ海漁撈文化圏を構築していた可能性も秘めている、と思う。
ところで、古代に「鯖」(大型のサメ)を捕っていた地方としては『延喜式』に、「凡中男一人輸作物。能登国、鯖。周防国、鯖。讃岐国、鯖。伊豫国、鯖。土佐国、鯖」(11)とあり、能登・周防・讃岐・伊予・土佐の各地である。
また、古代出雲では、秋鹿郡・楯縫郡・出雲郡(島根県宍道湖周辺)で、「北の海にあるところの雑の物は、?(ふぐ)・沙魚(さめ)・佐波(さば)・鳥賊(いか)(以下略(7)」と『出雲国風土記』にみえ、北の海(おそらく島根半島日本海側)で、佐波(さば)をとっていたことがわかる。
さらに栗江の崎(美保関付近)のところに「入鹿(いるか)・和爾(わに)が…」とみえ、和爾すなわち大型のサメが産物として挙げらているこのサルガ鼻洞窟からも、単体ではあるがサメ歯製垂飾がみつかっている。
先の秋鹿郡の産物として「沙魚(さめ)・佐波(さば)」と佐波と並んで沙魚も記されている。そこで、「沙魚」(鮫)を『和名類聚抄』でみると「音は交(コウ)・和名佐米(サメ)・魚皮に文が有り、以て刀剣の飾に可(な)る者也」(11)とあり、その皮が刀の飾になるものであると記されている。『倭訓栞』には「さめ」は「本草音義に、鮫魚皮、装二刃橘一也と見え、後漢志に以二白珠鮫一為二?口之飾一といひ、呉都賦の鮫函をさめざやと訓しは、欧陽公が魚皮装貼香木鞘といえる者なり、呉物志に、背上鮪二甲珠文一堅弦可二以飾ヲ刀、可二以為一鑢と見えたり」(13)とある。

サメの皮(樽本撮影)
サメの皮
(樽本撮影)

つまり、刀の柄や鞘に鮫の皮を巻き装飾とする風習が、古く中国や古代から 近世の日本にあったが、その装飾品となる玉や紋を有するサメの仲間を沙魚.鮫.飴と呼んでいたようである。それらは、沿岸底棲の小型のコロザメや深海に棲むアイザメ・ユメザメなどを原料とした。これらのサメの表皮には、大型のサメの表皮と違って見た目にはっきりとわかる小突状の楯鱗(じゆんりん)と呼ばれる特殊なウロコが覆っており、研磨すると真珠をはりつめたようになり、また小突起の形状によっては菊花の紋のようにも見える。これを「鮫皮」として珍重してきたのである。したがって、沿岸や深海に棲む小型のサメ類を総称して古代に「鮫(サメ)」と呼んだと思われる。
例えば、島根県太田市大浦では、サメの楯鱗それ自体を「さめ」と呼び、ワニ(サメのこと)を湯に通し、たわしなどで「さめ」(楯鱗)をこすって落とす、といった具合に使う。これなどは、象徴的であろう。察するに、サメの皮は、さわるとザラザラしており、砂のようだから沙(すな)の魚(さかな)=沙魚となり、サイ・サユまたはシャユと呼んだのがサメに転じたのではないかと考える。
さて、「鮫」の産地をみると、鮫脯(ほじし)(板状のサメの干肉)は、「凡諸国諭調」とあり全国的であった。また鮫楚(すは)割(やり)(サメの干肉を細かく裂いたもの)は愛知県の佐久島・篠島で生産され平城宮に送られていたのが、平城宮跡で発見された木簡から判明した(6)。『延喜式』には肥後の国名もみえる。
鮫楚割と全く同じものが、1975年現在、宮崎県川南など通称「とおり浜」と呼ばれる地域に、「ちくだん」の名称で売られている(ただしこれは味付をほどこしている)。また鮫脯にしてもその材料となるサメの種類と製品の大きさがわからないので、はっきりと言えないが、土佐清水で「テツボシ」、伊勢地方で「タレ」と呼ばれるサメ干肉とよく似た食品だったかもしれない。「テツボシ」や「タレ」は、大型のサメの肉を30×20センチの板状にして乾燥させたもので、土佐清水の丸鹿水産で聞いたところでは、「テツボシ」のサメ肉加工は、五島より伝わったと聞いているといい、また伊勢志摩で「タレ」を製造している曽我明氏も、サメ漁や「タレ」はもともと五島列島が本家であると話して下さった。先に往古の五島列島とサメ漁の関係にふれたが、この話はいかにも示唆にとむ。
以上対馬、五島列島・北九州を中心にサメ遺物と結合釣針の出土例、また「風土記」にサメ関連の記載をみてきたが、これらの地域には先史時代から古代にかけて、意図的にサメを捕獲していたことが推測される。すなわちサメ漁が営まれていたと思われるが、その漁撈民が宗像海人であれ白水郎であれ、周知のごとく潜水漁を得意としていた。それなら、同じ漁撈民が一方で潜水漁、他方でサメ漁を行っていたのだろうか。今日の漁業の就業形態でも一漁民が様々な漁法を、それぞれの対象魚の生態に合わせ、時間的並列(月毎に分けるなど)でロ-テ-ションさせていっているから、宗像ないし白水郎の漁撈民もそういった形で潜水漁とサメ漁を組み合わせて営んでいたのではなかろうか。つまりふだんは潜水漁を営み、外洋性の大きなサメが岸近く寄ってきたときにサメ漁を行ったと思われる。

4. 近世サメ漁業の漁具・漁法

詳細はわからないが、室町時代の「相州文書」(1375-1380)に追鮫船というのがみえ、下って江戸時代に、「村持で追鮫船三艘―元亀・天正時代(1570-1591)よりなお一艘追加―を造り、それに「かつき衆」を乗込ませたというから、恐らく彼等の生活も村から保証せられていたのであろう(14)」と羽原又吉氏は報告している。
追鮫船というのは、関東沿海の湾内に入ってきたサメを、漁業上支障があるので、追払ったものらしく、これに「かつき衆」、「恐らく往昔の海士(あま)族系統」が従事し、彼らは潜水漁撈民であっただろうという。
これが私の知る限りただ一例潜水漁撈民がサメ漁も同時に行っていたことを示す直接資料であり、また中世のサメ漁を嗅わせるものである。
サメを船で追うといっても、現実にはこれを鈷で突くなり、釣り上げる以外に方法はないのでサメを捕獲するのを主目的とせず、単に殺すのが目的であったにちがいない。
私達は、サメ漁と聞くと、サメを食糧等に利用する目的で捕獲するものと思いがちだが、追鮫船のようなサメ退治のためのサメ漁という例は他にもある。熊本県天草郡苓北町富岡で、享保五年(1720)に「鱶狩り」または「鱶網」という大規模なサメ漁が起こっているが、「フカ狩り」の名が示すようにサメ退治のために行われてきた。
旧暦6月13日頃、同地沖合の鱶曽根と呼ばれる暗礁に、200キロ余りの大きなツマグロなどメジロザメの仲間が集まってくるが、それをみはからって、42隻の船を使い、振縄(ぶりなわ)というものでサメを追い、地曳網でそれを囲んで一網打尽にするのである。この日は代官所の命令で、漁師のみならず百姓・町人も休業(「商売止」といった)し、この漁に参加した。その費用は莫大で、とても年一回の漁では採算が合わず、出資者である網元の頭痛の種であったようで、この漁はいわば村総出の行事であったと思われる(15)。
この「鱶網」の漁具・漁法は、タイ縛網漁という漁具・漁法とほとんど同じである。タイ縛網は、はやくも慶長年間(1596-1614)紀伊日高地方にあり(16)、後に瀬戸内海東部でも勢い盛んとなった。このタイ縛網をサメ用に大型化させたものかどうか不明だが、サメの縛り網は苓北町周辺の「鱶網」以外に記録がなく、漁業技術史からも興味深い漁法である。
他に江戸時代、「鱶網」のように袋網の類でサメを捕っていた記録としては、小鱶手繰網がある。これは、「文久3年以来淡路津名郡由良村で行われたもので、ノソフカの外タイ・エイ等を漁獲した」(16)。ちなみに淡路でノソフカは、沿岸底棲の一メ-トル余りのホシザメやシロザメをいう。
なお「鱶網」は、私の手元資料では、観光として断続的に昭和四十八年まで行われており、小鱶手繰網については先の記録以外に私は知らない。
この他、現存するサメ漁で、ウバザメ突棒漁というのが、伊勢志摩波切にある。全長「10メ-トル、体重3トン余りのウバザメが、2~3月頃深海より浮上し、水面に漂っているところを鈷でつく漁法だが、江戸時代の『桃洞遺筆』(小原桃洞1746~1825)にみえるという(16)。
以上3例は、サメ漁業としては江戸時代でも異例のもので、刺網と一本釣および延縄によるサメ漁が一般的であり、とくにサメ延縄がその主流となる。
さて、サメ刺網漁業だが、江戸時代には主として食用と鮫皮用に沿岸や深海の小型のサメ類を捕っていたようである。刺網というのは、網をただ長方形につくったもので、これを継ぎ合わせ帯のように長くしたものを、魚の通行を遮るかたちで設置し、魚を網にからめてとる漁法である。刺網漁業には網を海底に設置する底刺網漁法と海中表層ないし中層に樽などの浮きで浮力調整して設置する浮刺網漁法とがあり、サメ刺網漁は底刺網漁法に属する。
これを江戸時代に行っていたのは、慶長年間(1596-1614)羽前西田川郡豊浦村由良、とその沿海(宝暦年間1751-1763)が記録にみえる(17)。他に『熊本県漁業法』に宇土郡松合村鱶刺網(17)、南紀石座浦の鮫網(18)、長門青海島大日比浦鱶立漁(19)、この他明治の資料から推測して長門豊浦郡沿岸(20)(ここでは鱶延縄も行われていた)陸中沿海などの記録がある。
ここで、大日比浦の安政四年(1857)の文書から、「鱶立漁の一団は中層以下の漁民層で往昔から当浦最重要の鮪・鰤挽網及び鯨網漁に対して直接の利害関係に参加出来ない人々の社会層であることに特別の注意を払うべきである(20)」、と羽原又吉氏は指摘している。こうした傾向はサメ刺網漁の漁民に限らずサメ延縄漁の漁民にもみられ、概してサメ漁業に従事した漁民は、先の追鮫船の「かつき衆」も含め、浦社会で軽視されていた。このことは後に重要な意味をもってくる。
つぎに、サメ延縄漁業についてみると、もともとは底延縄で沿岸の小型のサメだけをとっていたと思われるが、江戸中・後期には漁具が改良され外洋性の3,4メ-トルもある大きなサメを釣るようになる。
そもそも延縄とは、一本の幹縄に枝縄を数メ-トル間隔で並列に結び、この枝縄の先に各々一本ずつ釣針をつけたもので、サメ延縄は、サメの鋭利な歯で枝縄が食いちぎられないよう工夫されている。江戸時代は西日本の底延縄が主流で、これには枝縄のかわりに真鍮線を鎖状にしていたし(21)、江戸中期から近代にかけ、関東から三陸沿岸に展開したサメ浮延縄は、枝縄に銅線を巻きつけ、とくに釣針の上一尋を「セキマキ」と呼び、密に巻いていた。 サメ延縄漁業には、底延縄漁法と浮延縄漁法とがあり、底延縄漁法は延縄を海底に這わせ、浮延縄漁法は、これを海中表・中層に浮設させる漁法である。

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